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信幸は、ひとり部屋に座していた。人を遠ざけひとり。
瞑想するように瞼を閉じ、じっと座り込む。
家臣たちの、昌幸と幸村の助命が叶ったことへの喜びの声が遠くに聞こえてくる。
上田と沼田で別れていたが、家臣たちも繋がりが深い。昌幸と幸村の家臣たちは、そのまま自分が抱えることになるだろうと漠然と考えながら、ゆっくり瞼を開く。
広がる部屋には誰にもいない。
けれど、今こそ幸村と話してみたいものだと思う。
この部屋だった――。
「兄上は――、義姉上を愛してますか?」
幸村にそう聞かれたのは、この部屋だった。
夫婦について悩んでいる幸村だった。真っ直ぐな気性の弟だ。
妻を娶ったはいいが、くのいちが離れていくのではないかという恐怖心と、大切にしようしながら愛せない妻への想いを抱えて葛藤していた。
「婚姻は――家と家との繋がりであって、愛だとか恋だとかを求めるものではない」
そう言ったのは自分。
信幸も稲との縁談を受けたのは、徳川と縁を持っておいた方が真田にとっていいと思ったから。
そして、今。
あの時の決断は正しかったのだろうと思う。
幸村、とここにいない弟を呼びかける。
「兄上は変わった、と思いました。兄上を変えたのは義姉上だと思うと、嫌悪していた気持ちは消えました」
弟はそう言った。
言われた時は分からなかった。けれど、今になって分かった気がするのだ。
言えなかった、口腔で呟きを落とす。
なぜだろう、なぜ言えなかったのだろう。自問自答する。
その結果、胸に浮かぶのは――。
「これが・・・」
そうなのだろうか、今度は言葉に出して呟く。
立ち上がって障子を開くと、午後の柔らかな風が吹きぬけ、葉を揺らす乾いた音と共に、枯葉が一枚部屋に入り込んできた。
それを拾い上げて、そっと投げ、もう一度風に舞わせる。
くるくると枯葉は風に揺れて、落ちて行った。
それを見届けてから、縁の簀の子をきしりと鳴らして、部屋を出る。
信幸が帰って来ていることを稲は知っている。
けれど、出迎えに向かった時にはもういなかった。
そして、出浦に「ひとりになりたいそうです」と言われた。
助命が叶ったことは聞いた。
稲も心から安堵して涙した。
そして、それを信幸と分かち合いたいのに――。
信幸はそうではない、ということなのだろう。
虚しい心を抱えていた時。
奥方さま、と呼ばれた。ハッとして顔を上げれば侍女が口を開くより早く、
「下がってくれないか」
侍女にそう言ったのは信幸。
侍女の足音が聞こえなくなった頃、ゆっくりと部屋に入ると稲の前に座する。
それを落ち着かない気持ちで見ていた稲だったが、慌てて助命が叶ったことへの祝辞を、と思ったけれど、それを信幸がふわりと手で制する。
舞うように揺れた信幸の手だが、掌に怪我をしていることに稲は気付いて、ハッとして信幸の顔を見れば、その首元も怪我をしているらしく隠すように包帯を巻いているのが目に入った。
「そのお怪我は――」
弾かれるように稲は腰を上げ、夫に近づく。
一体どうなさったの――言い終わらないうちに抱きしめられた。
あっ、と小さく驚きの声を上げ、呼吸が止まった。それぐらい強く抱きしめられた。
「――離縁するつもりだった」
信幸が言う。切なく苦しそうな搾り出すような声だった。
そして、痛いと思えるほど、息ができないと思えるほどに強く抱きしめてくる。
――離縁、と信幸は言った。
その衝撃が稲の胸の中をうごめき、鼓動を早める。
どくどくと鳴る鼓動は、おそらく信幸にも伝わっているだろう。
「その方が、稲にとっていいと思った」
真田の家はこれからが大変になる。
だから――。
稲に何も報いてやることはできないのだから、真田から逃してやるのが、
「あなたにとっていいと思った」
力を貸してくれた礼を忠勝に述べた時、そのことを告げるつもりだった。
良かった良かったと自分のことのように喜んでくれる義父を前に言い出せなかったのではない。
父と弟の助命懇願をした際、家康から貰ったものを返すと言ったのは、ハッタリだったが。
言えなかった。
いざ言おうとした時、言葉が出なかった。
出ないどころか――怖くなった。
本当に稲を失う、しかも、自分の意思でそれを決めたのにも関わらず怖くなった。
怖くなって気付いた。
「どうやら、私は――」
あなたを愛しているらしい。
稲を抱く腕の力を弛緩させ、そっと稲の顔を覗き込んでくる。
その瞳を見て稲は、体が震えた。
無意識に息を呑む。真正面にある信幸の双眸。
いつも思う真っ直ぐに澄んだ視線は、冬の水面を思わせるような静かな瞳。
いつかその瞳で自分をしっかり捉えて欲しいと願い続けていた。
それが今やっと――・・・。
自分を見る信幸の静かな瞳の中に、いつもと違うものが揺がれている。
甘さ。
甘く、抱きしめるような、絡みつくように稲を信幸の瞳が見ている。
心の針に揺れる想い。疼くものがその瞳に揺れている。
稲・・・、と呼ばれて、稲はぽろぽろと涙を零しながら。
離縁と言ったかと思えば、愛しているなんて。
「勝手な人」
稲が信幸の肩に、そっと唇を寄せたそう言った後、言葉が詰まった。
自分の肩が稲の涙で潤っていくのを信幸は感じた。
稲の背を抱え、幾度も幾度も撫でる。撫でながら、
「幸村に、婚姻は家と家との繋がりであって、愛だとか恋だとかを求めるものではないと言ったことがある」
ずっとそう思っていた、と言う信幸に稲は首を振る。
「政略結婚も――きっとそのふたりが、ひとつの時を分けあうため、数え切きれない日を共にすることを運命に選ばれて、それで・・・」
「運命に選ばれて・・・」
顔を見せてくれ、と言われて稲は、信幸の肩から顔を上げるが、きっとすごい顔をしているのだろうと思うとなかなか上げられずにいたが、信幸の手が稲の顎に触れ、上向かせる。
数瞬、見つめあう。
それから、子供までなしたふたりなのに、ぎこちなく唇を重ねる。
全身で信幸を感じる。
今、自分を抱きしめてくる腕、滔々と歴史の大河を見つめる目、吐息を零す唇。鼓動。
全て知っているのに――今はじめて知った気にさせられる。
人の心は見えなくて、もどかしいけれど、伝え合えばそこから全てが新たに始まる。
そういうものなのかもしれない。
「信幸さま・・・、愛しています」
稲が言えば、ふわりと信幸が微笑む。微笑みながら、
「知ってます」
そんなことを言う。思わずむくれる稲に、
「けれど、口に出してその言葉を聞いたのは初めてですね」
信幸の腕が再び稲を抱きしめる。寄り添い合う為に伸ばされた腕。
これからを共にする為に伸ばされた腕。
その腕の中で、稲は子供のように甘える。
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瞑想するように瞼を閉じ、じっと座り込む。
家臣たちの、昌幸と幸村の助命が叶ったことへの喜びの声が遠くに聞こえてくる。
上田と沼田で別れていたが、家臣たちも繋がりが深い。昌幸と幸村の家臣たちは、そのまま自分が抱えることになるだろうと漠然と考えながら、ゆっくり瞼を開く。
広がる部屋には誰にもいない。
けれど、今こそ幸村と話してみたいものだと思う。
この部屋だった――。
「兄上は――、義姉上を愛してますか?」
幸村にそう聞かれたのは、この部屋だった。
夫婦について悩んでいる幸村だった。真っ直ぐな気性の弟だ。
妻を娶ったはいいが、くのいちが離れていくのではないかという恐怖心と、大切にしようしながら愛せない妻への想いを抱えて葛藤していた。
「婚姻は――家と家との繋がりであって、愛だとか恋だとかを求めるものではない」
そう言ったのは自分。
信幸も稲との縁談を受けたのは、徳川と縁を持っておいた方が真田にとっていいと思ったから。
そして、今。
あの時の決断は正しかったのだろうと思う。
幸村、とここにいない弟を呼びかける。
「兄上は変わった、と思いました。兄上を変えたのは義姉上だと思うと、嫌悪していた気持ちは消えました」
弟はそう言った。
言われた時は分からなかった。けれど、今になって分かった気がするのだ。
言えなかった、口腔で呟きを落とす。
なぜだろう、なぜ言えなかったのだろう。自問自答する。
その結果、胸に浮かぶのは――。
「これが・・・」
そうなのだろうか、今度は言葉に出して呟く。
立ち上がって障子を開くと、午後の柔らかな風が吹きぬけ、葉を揺らす乾いた音と共に、枯葉が一枚部屋に入り込んできた。
それを拾い上げて、そっと投げ、もう一度風に舞わせる。
くるくると枯葉は風に揺れて、落ちて行った。
それを見届けてから、縁の簀の子をきしりと鳴らして、部屋を出る。
信幸が帰って来ていることを稲は知っている。
けれど、出迎えに向かった時にはもういなかった。
そして、出浦に「ひとりになりたいそうです」と言われた。
助命が叶ったことは聞いた。
稲も心から安堵して涙した。
そして、それを信幸と分かち合いたいのに――。
信幸はそうではない、ということなのだろう。
虚しい心を抱えていた時。
奥方さま、と呼ばれた。ハッとして顔を上げれば侍女が口を開くより早く、
「下がってくれないか」
侍女にそう言ったのは信幸。
侍女の足音が聞こえなくなった頃、ゆっくりと部屋に入ると稲の前に座する。
それを落ち着かない気持ちで見ていた稲だったが、慌てて助命が叶ったことへの祝辞を、と思ったけれど、それを信幸がふわりと手で制する。
舞うように揺れた信幸の手だが、掌に怪我をしていることに稲は気付いて、ハッとして信幸の顔を見れば、その首元も怪我をしているらしく隠すように包帯を巻いているのが目に入った。
「そのお怪我は――」
弾かれるように稲は腰を上げ、夫に近づく。
一体どうなさったの――言い終わらないうちに抱きしめられた。
あっ、と小さく驚きの声を上げ、呼吸が止まった。それぐらい強く抱きしめられた。
「――離縁するつもりだった」
信幸が言う。切なく苦しそうな搾り出すような声だった。
そして、痛いと思えるほど、息ができないと思えるほどに強く抱きしめてくる。
――離縁、と信幸は言った。
その衝撃が稲の胸の中をうごめき、鼓動を早める。
どくどくと鳴る鼓動は、おそらく信幸にも伝わっているだろう。
「その方が、稲にとっていいと思った」
真田の家はこれからが大変になる。
だから――。
稲に何も報いてやることはできないのだから、真田から逃してやるのが、
「あなたにとっていいと思った」
力を貸してくれた礼を忠勝に述べた時、そのことを告げるつもりだった。
良かった良かったと自分のことのように喜んでくれる義父を前に言い出せなかったのではない。
父と弟の助命懇願をした際、家康から貰ったものを返すと言ったのは、ハッタリだったが。
言えなかった。
いざ言おうとした時、言葉が出なかった。
出ないどころか――怖くなった。
本当に稲を失う、しかも、自分の意思でそれを決めたのにも関わらず怖くなった。
怖くなって気付いた。
「どうやら、私は――」
あなたを愛しているらしい。
稲を抱く腕の力を弛緩させ、そっと稲の顔を覗き込んでくる。
その瞳を見て稲は、体が震えた。
無意識に息を呑む。真正面にある信幸の双眸。
いつも思う真っ直ぐに澄んだ視線は、冬の水面を思わせるような静かな瞳。
いつかその瞳で自分をしっかり捉えて欲しいと願い続けていた。
それが今やっと――・・・。
自分を見る信幸の静かな瞳の中に、いつもと違うものが揺がれている。
甘さ。
甘く、抱きしめるような、絡みつくように稲を信幸の瞳が見ている。
心の針に揺れる想い。疼くものがその瞳に揺れている。
稲・・・、と呼ばれて、稲はぽろぽろと涙を零しながら。
離縁と言ったかと思えば、愛しているなんて。
「勝手な人」
稲が信幸の肩に、そっと唇を寄せたそう言った後、言葉が詰まった。
自分の肩が稲の涙で潤っていくのを信幸は感じた。
稲の背を抱え、幾度も幾度も撫でる。撫でながら、
「幸村に、婚姻は家と家との繋がりであって、愛だとか恋だとかを求めるものではないと言ったことがある」
ずっとそう思っていた、と言う信幸に稲は首を振る。
「政略結婚も――きっとそのふたりが、ひとつの時を分けあうため、数え切きれない日を共にすることを運命に選ばれて、それで・・・」
「運命に選ばれて・・・」
顔を見せてくれ、と言われて稲は、信幸の肩から顔を上げるが、きっとすごい顔をしているのだろうと思うとなかなか上げられずにいたが、信幸の手が稲の顎に触れ、上向かせる。
数瞬、見つめあう。
それから、子供までなしたふたりなのに、ぎこちなく唇を重ねる。
全身で信幸を感じる。
今、自分を抱きしめてくる腕、滔々と歴史の大河を見つめる目、吐息を零す唇。鼓動。
全て知っているのに――今はじめて知った気にさせられる。
人の心は見えなくて、もどかしいけれど、伝え合えばそこから全てが新たに始まる。
そういうものなのかもしれない。
「信幸さま・・・、愛しています」
稲が言えば、ふわりと信幸が微笑む。微笑みながら、
「知ってます」
そんなことを言う。思わずむくれる稲に、
「けれど、口に出してその言葉を聞いたのは初めてですね」
信幸の腕が再び稲を抱きしめる。寄り添い合う為に伸ばされた腕。
これからを共にする為に伸ばされた腕。
その腕の中で、稲は子供のように甘える。
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