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ぱたぱたと愛らしい足音が聞こえたかと思うと、腹の上に、やわらかい重みが落ちてきた。信幸は、それで眠りから覚め、瞼を薄く開く。
目の前に、にこにこと笑う息子―孫六郎の顔があった。
「・・・どうした?」
あくびまじりに聞くと、
「上田のじじがね、来たよ」
「・・・また?」
やっと言葉がはっきりと出るようになったばかりの幼い息子は、信幸の腹を玩具と見立てているのか、ゆらゆらと揺らしては喜んでいる。
重くなったな、と父親として息子の成長を嬉しく思う気持ちもあるが、今は眠い。
なにぶん昨夜遅くに沼田に帰ってきたばかりなのだ。
きゃっきゃっと喜ぶ息子に手を伸ばして、横に座らせるがまた乗ってくる。
それを二度ほど繰り返し、どうやら孫六郎はそれすら遊びだと思っているらしいことに気付いた信幸は、苦笑を微笑に変えると上半身を起こした。
父が起きたのが嬉しいのか、子供特有の高い声をあげて首に抱きついてくる。
「随分遅い起床だな」
息子に手を引っ張られながら父が待つという居間に行けば、1歳にもならない次男―仙千代を昌幸が抱いていた。その隣で妻の稲が大人しく座っている。
こうしているとただの好々爺にしか見えない、と昌幸のことを信幸は思った。
信幸は子供の頃、父に抱かれた記憶がない。
昌幸の膝の上は幸村の定位置で、それを見ていた。
しかし、よほど孫というものは可愛いらしい。
上田から、何やとこじつけのような理由を作っては会いに来る。
仮に信幸が頻繁に沼田から上田に行こうものなら、金と時間ががもったいないなど愚痴愚痴と文句を言うだろう。
けれど、夭逝した娘の時も溺愛していたが、息子ほどではない。
男孫だからなのか、それとも、父も年をとったのか。
信幸の手を離れ、孫六郎は昌幸の隣にちょこんと座りこんで、弟の頬をつついて遊んでいる。
「昨晩帰ったばかりなのですが」
「また狸に呼ばれていたのか?」
にやりと昌幸が笑う。
その笑いはまるで蔑んでいるようにも見えて――蔑むという行為を楽しんでいるようにも見えて信幸は、内心眉をひそめたが、それを表には現したりはしない。
「何を話してきた?」
「――愚痴を聞いてきただけです」
「何の?」
信幸は答えない。
そもそも昌幸も返答など期待していない。どうせ朝鮮のことだろう、と分かっている。
小田原征伐後。
秀吉は天下統一を果たした。
真田家は、昌幸が上田が安堵された上の加増があり、信幸も加増込みで沼田を任され、沼田城主となった。
けれど、天下統一だけで秀吉は満足できなかったのか、それとも、念願だった嫡子の鶴松をわずか3歳でなくした、その悲しみを振り払う為にか、朝鮮へ出兵をはじめた。それに家康は反対したが秀吉は耳を貸さなかった。
真田家も肥前名護屋に入り布陣したが、渡航はしなかった。
「わしは、太閤が嫌いではない」
家康が言った。
言ってから、いや違う、とも言うとしばらく黙り込んだ。沈黙をあたりに散らした後、
「嫌いではなかった――かもしれない」
ぽつりと言う。
信幸は何も答えない。ただ酒を口に含む。
舅でもある忠勝の視線を感じたが、あえて気付かない振りを続ける。
「以前の太閤は」
誇張、虚勢、悪態。そんなものは色を感じさせない目をしていた。
見事に陰謀とハッタリをきかせ堂々たる采配で大軍を指揮し、貧しい百姓の身分から立身してみせた男に、「才気」を感じたから臣下に下ったというのに――。
朝鮮から中国、果てはインドまで征服しようなどという計画は、以前に信長公が言っていたものだ。
あの頃はまだまだ乱世で、そんな他愛無い夢物語を実現できたらと笑っていられた。
しかし――。
殿、と止めに入ったのは井伊直政。
初めて会った時、顔立ちもすっきりと涼しげに整い、家康の寵童だったらしいという噂に信幸は納得したものだ。その整った顔を信幸に向け、苦笑を口の端に浮かべた。
直政とは、家康の養女をともに妻にしているという共通点がある。
直政に止められても、言い足りないらしい家康に、
「老いたのでしょう」
信幸が言った。
以前にも同じことを言ったことがあると信幸は思った。
相手は立花宗茂と細川忠興だった。宗茂は素直にただ驚いた顔をしていたが、忠興は眼光を鈍く光らせ信幸を睨みつけてきた。
そのふたりも今は朝鮮に渡っている。
その場にいた一同の視線が信幸に集まったので、信幸はそれを受け止め、けれど、すぐに散らすように微笑んだ。なぜ皆が自分を見ているのか分からない。そんな風に見てとれるような微笑。
それを見て家康は思う。
性質は違えど――あの裏表比興の者という男の息子なだけのことはあると。
けれど、父親に感じる不快感を息子には感じない。
「信幸は、まこと奇妙な男だな」
信幸はゆっくりと視線を家康に戻した。信幸の視線に家康はふっと笑い、
「何を思っているのか分からない」
「そのようによく言われますが」
「――が?」
「そう見えるとき、本当に何も考えていないのですよ」
にこりとして信幸が言えば、家康が声を上げて笑う。一通り笑った後、ふと哀しげに瞳を揺らめかせると、じっと信幸を見つめながら、杯を唇まで持っていったものの、含まずに家康は下げた。
そんなことを思い返した信幸だったが、父の腕の中の仙千代が泣き出した。
昌幸があやしても泣き止まず、稲がそっと手を伸ばし抱くと、ぐずぐずしながらも泣き止んだ。稲は息子を抱きかかえ直すと、
「おしめをかえてきますわ」
と席を外す。待って母上、と孫六郎も稲について行ってしまう。
それを残念そうに見る昌幸に、信幸は思わずくっくっと喉で低く笑った。
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