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「苦労をかけますね」

夫の言葉に稲は振り返る。
関ヶ原の合戦が終わり、袂を別った父と弟が九度山を流謫の地としてどうにか落ち着き、信幸が信之へと改名した頃、突然、信之がそんなことを言った。
稲が信之を見れば、その目許は柔らかいが、強い隠影が刻まれている。

「突然、何ですか?」
「何が?」

信之がとぼけるので、稲はくすっと笑う。
稲は、これから徳川への臣従の証として江戸の人質として行くことになっている。それに、九度山への仕送りの為に生活も切り詰めないといけない。
それらのことを言っているのだろうと思いながら稲は、

「結婚前は、浜松と駿府におりましたが、沼田で過ごした時間の方がいつの間にか長くなってしまいました。本当にあっという間でした。思いのほか楽しかったですよ」

そう言うと、真っ直ぐに信之の瞳を覗き込み、

「私が信之さまに嫁いだのは、私を妻にして良かった、と絶対に思わせる為ですから」
「そういえば、そんなことを言ってましたね」

信之が力なく笑う。

「どうですか?私が妻でよかったでしょう?」
「そうですね。父弟の助命嘆願では舅殿には大変お世話になりましたので」
「そうではなく、私という女を妻にして、です」

分かってますよ、とばかりに楽しげに信之は瞳を揺らす。

「そうですね。今のところは・・」
「今のところは?」
「先は分かりませんからね」

前にも似た言葉を聞いたと稲は記憶を探る。
探りながら思いのほか、信之との思い出が多いことに気付き、口許が綻んだ。

「私のことより稲はどうなのですか?真田に嫁いで良かったですか?」
「――そうですね。今のところは」
「先のことは分からない?」
「ええ」

二人は視線をぶつけた。そして、ふと同時にそれを緩ませる。

「本当に先はことは分からない。父も弟もはたして九度山で大人しくしてくれるかどうか」
「私がいなくなった沼田で、信之さまも大人しくして下さっているかどうか」
「どういう意味ですか?」
「さぁ、どういう意味でしょうかね」

改めてピンと姿勢を伸ばして、つんと稲は取り澄ましてみせる。
そんな稲を信之が笑う。

「心がけましょう」
「頼りないお返事ですこと」

また信之が笑う。
そんな信之に稲は、すすっと近づくと、そっとその手を握ると、自分の頬に押し当てる。

「稲?」
「私が信之さまに嫁いだのは、私を妻にして良かった、と絶対に思わせる為ですからね。離されていても覚悟なさっていてくださいね」
「それは恐ろしい」

ジロリと睨みつけてくる稲の前髪を掻き分けた後、そっとその額に口付ける。
そこでは物足りないとばかりに、甘えたように稲が見上げてくるので、望みの場所に口付けてやりながら、信之はその腰を引き寄せて、そっと横たえ、その耳朶に唇を押し当てて、

「私に嫁いで良かったですか?」

稲は答える代わりに、ただ微笑む。
わざわざ口にしなくても分かっているのでしょう、と微笑む。
微笑みながら、

「先のことは分かりませんからね。私たちはまだまだこれからずっと続いていくのですから・・・」

と笑ってみせる。











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