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冬の夜は長く、暗くて、凍える。
火桶もなく、灯台の明かりがひとつ灯されただけの部屋で、宗茂は文机に置かれた真白い懐紙の中身を見つめていた。
昼間、突然やって来た加藤清正が置いて行ったものだ。
清正は、懐から袱紗に丁重に包まれたそれをゆっくりと取り出すと、そっと宗茂の前に置いた。宗茂を一瞥だけして、反らした顔に浮かぶ感情の色は、哀しみのような憎しみのような――宗茂には判断が出来ない。
何だ、やけに仰々しいな、と笑いながら言っても、清正の表情は崩れない。
宗茂から目を反らしたまま袱紗と懐紙を開いてゆく。
「これは――?」
どくん――と宗茂の鼓動が鳴った。
一目見て分かった。分かったけれど、違うと否定する。違う。そんなはずはない。その証拠に長さが違うではないか。違う違う違う。
「誾千代の遺髪だ。お前に渡してくれと頼まれていた」
「――は、はははっ」
宗茂が洩らした笑いに、清正の頬が歪む。
「遺髪だ・・・と。何を一体・・・」
「最後に会った時、誾千代の顔はこの懐紙より白かった」
「髪の長さが違うではないか。それに誾千代は――」
「お前が高瀬を出て、誾千代が赤腹村に居を移してから伸ばしていた。お前が髪を伸ばした姿を見てみたい、と言ってたことがあるから、と誾千代は笑ってた」
「嘘だな。誾千代が俺の言うことをきくはずがない」
「嘘も真も何も、これは誾千代の遺髪だ。受け取ってやってくれ」
「誾千代が死ぬはずがない。本当はどこにいるんだ、あいつは・・・」
宗茂の言葉に清正は、絶句した様子だったが、すぐに気を取り直したのか、
「死んだ。誾千代は死んだ。それはお前も知っている事実だろう」
「嘘だ」
「お前、本当に信じていないのか?」
「誾千代が死ぬわけがない」
宗茂の頬を縁取る歪んだ笑いを、清正は言葉もなく見つめた。
「病気ひとつしたことがないような女だったんだ。死ぬわけがない。死んだことにしてどこかに身を潜めているのだろう」
清正の喉には、まだ声が戻らず、ただただ哀れんだ目で宗茂を見つめるばかり。
その視線を宗茂は、鼻先で笑って散らす。
確かに宗茂が出て行くまで誾千代は健康だった。死に目にもあっていない。遺体も見ていない。死んだ、と聞いただけでは信じられないのも仕方のないことかもしれないと清正は思う。
死の直前、誾千代が清正を呼び出した。
会いに行けば、そこにいたのは紙よりも白い顔をした痩せた女。この女が戦場に立っていたとは思えないほどにやつれた姿で脇息にもたれかかっていた。
「か――み、伸びたな」
顔色が――と言いかけて止めたのを誾千代も分かったらしく、ふっと笑った。
「切るのも億劫で放っておいたら伸びた。まぁ、宗茂も一度ぐらい伸ばした姿が見たいなどとほざいていたから、最期ぐらいは言うことを聞いてやろうと思ってな」
「最期ってお前――・・・」
にこりと誾千代は珍しく素直に微笑む。
「姿を見せてやることは出来ないから、渡してくれ」
もう用意しておいたらしい懐紙に包まれた髪をそっと清正に渡した。
清正は受け取らない。けれど、誾千代は続ける。
「あと、悪いが伝言を頼む」
冗談じゃない、直接言え――と即座に清正は叫びかけた。
けれど、その瞬間、見えた誾千代の手は震えていた。もしや――筆も握れないほどに弱っているのか?侍女に代筆を頼むではなく、直接自分から伝えてくれ、と願っているのか?
清正の心を誾千代は彼の沈黙から読み取ったのか、
「面倒ばかりかけるな」
と笑った。その笑顔は不思議なほどに澄んでいた。
もう未練などない、そう思える笑顔だった。そんなはずはないのに、誾千代はそう見える微笑を浮かべた。意地っ張りな性分故なのか。
清正が誾千代の微笑を思い出していると、
「そろそろ迎えに行こうと思っていた。どこにいるんだ」
宗茂が言った。
関ヶ原の後、改易されて浪人となっていた宗茂は、徳川家に御書院番頭として召し抱えられて久しい。生活も落ち着いてきたらしいと知り、清正は宗茂を訪れたのだった。
おそらく――宗茂は、誾千代の為、立花家を再建する為に高瀬を出た。その足がかりを掴んだら迎えに行くつもりだったのだろう。
「――お前は――」
「――」
「お前はいつも私の先を行くが、こればかりは私が先にいく。向こうで今度はお前に勝てるように準備して待っていてやるからゆっくりこい。髪が白くなって足腰が弱ってから来い。そんなお前になら勝てるだろう」
「えっ?」
「誾千代の伝言だ」
伝えたぞ――そう言うと清正は荒々しく立ち上がると、その荒々しさのまま障子戸を開き、廊に足音が響いて、そのまま、帰っていくのが分かった。
狭い屋敷だ。立花家の家臣たちが何事かあったのか慌てる様子、それに清正が誾千代の遺言を伝えたことを簡潔に話しているのまで聞こえてくる。
清正が開いたままにした障子戸から風が入ってきた。
懐紙の上の誾千代の髪が、頼りなく風に飛ばされそうになったので宗茂は慌てて、それを抑えて抱え込む。懐紙がぐしゃりと宗茂の胸で皺になる。
「あぁ、お前は本当に死んだのか――・・・・」
死――を初めて受け入れた。
受け入れてしまえばあとはただ静かだった。その静けさは切なさに揺れる。
夜、文机の上の誾千代の髪をただただ見つめた。
部屋は寒く、ひっそりと静まり返っている。家臣が火桶を、と言ったのを断った。寒いくらいは今の自分には丁度いいように思えた。
「この長さだと――胸元ぐらいまでは伸びていたのか?」
返ることのない問いかけをする。
見たかったな、と言いかけて止める。
髪が白くなり、足腰が弱った年取った自分が誾千代の元へ向かえば、そこにはきっと髪の長い若い姿のままの誾千代が待っているのだろう。
「それはそれで――卑怯だぞ」
宗茂は、ゆっくりと頬を動かして、そして、ははっと笑った。
火桶もなく、灯台の明かりがひとつ灯されただけの部屋で、宗茂は文机に置かれた真白い懐紙の中身を見つめていた。
昼間、突然やって来た加藤清正が置いて行ったものだ。
清正は、懐から袱紗に丁重に包まれたそれをゆっくりと取り出すと、そっと宗茂の前に置いた。宗茂を一瞥だけして、反らした顔に浮かぶ感情の色は、哀しみのような憎しみのような――宗茂には判断が出来ない。
何だ、やけに仰々しいな、と笑いながら言っても、清正の表情は崩れない。
宗茂から目を反らしたまま袱紗と懐紙を開いてゆく。
「これは――?」
どくん――と宗茂の鼓動が鳴った。
一目見て分かった。分かったけれど、違うと否定する。違う。そんなはずはない。その証拠に長さが違うではないか。違う違う違う。
「誾千代の遺髪だ。お前に渡してくれと頼まれていた」
「――は、はははっ」
宗茂が洩らした笑いに、清正の頬が歪む。
「遺髪だ・・・と。何を一体・・・」
「最後に会った時、誾千代の顔はこの懐紙より白かった」
「髪の長さが違うではないか。それに誾千代は――」
「お前が高瀬を出て、誾千代が赤腹村に居を移してから伸ばしていた。お前が髪を伸ばした姿を見てみたい、と言ってたことがあるから、と誾千代は笑ってた」
「嘘だな。誾千代が俺の言うことをきくはずがない」
「嘘も真も何も、これは誾千代の遺髪だ。受け取ってやってくれ」
「誾千代が死ぬはずがない。本当はどこにいるんだ、あいつは・・・」
宗茂の言葉に清正は、絶句した様子だったが、すぐに気を取り直したのか、
「死んだ。誾千代は死んだ。それはお前も知っている事実だろう」
「嘘だ」
「お前、本当に信じていないのか?」
「誾千代が死ぬわけがない」
宗茂の頬を縁取る歪んだ笑いを、清正は言葉もなく見つめた。
「病気ひとつしたことがないような女だったんだ。死ぬわけがない。死んだことにしてどこかに身を潜めているのだろう」
清正の喉には、まだ声が戻らず、ただただ哀れんだ目で宗茂を見つめるばかり。
その視線を宗茂は、鼻先で笑って散らす。
確かに宗茂が出て行くまで誾千代は健康だった。死に目にもあっていない。遺体も見ていない。死んだ、と聞いただけでは信じられないのも仕方のないことかもしれないと清正は思う。
死の直前、誾千代が清正を呼び出した。
会いに行けば、そこにいたのは紙よりも白い顔をした痩せた女。この女が戦場に立っていたとは思えないほどにやつれた姿で脇息にもたれかかっていた。
「か――み、伸びたな」
顔色が――と言いかけて止めたのを誾千代も分かったらしく、ふっと笑った。
「切るのも億劫で放っておいたら伸びた。まぁ、宗茂も一度ぐらい伸ばした姿が見たいなどとほざいていたから、最期ぐらいは言うことを聞いてやろうと思ってな」
「最期ってお前――・・・」
にこりと誾千代は珍しく素直に微笑む。
「姿を見せてやることは出来ないから、渡してくれ」
もう用意しておいたらしい懐紙に包まれた髪をそっと清正に渡した。
清正は受け取らない。けれど、誾千代は続ける。
「あと、悪いが伝言を頼む」
冗談じゃない、直接言え――と即座に清正は叫びかけた。
けれど、その瞬間、見えた誾千代の手は震えていた。もしや――筆も握れないほどに弱っているのか?侍女に代筆を頼むではなく、直接自分から伝えてくれ、と願っているのか?
清正の心を誾千代は彼の沈黙から読み取ったのか、
「面倒ばかりかけるな」
と笑った。その笑顔は不思議なほどに澄んでいた。
もう未練などない、そう思える笑顔だった。そんなはずはないのに、誾千代はそう見える微笑を浮かべた。意地っ張りな性分故なのか。
清正が誾千代の微笑を思い出していると、
「そろそろ迎えに行こうと思っていた。どこにいるんだ」
宗茂が言った。
関ヶ原の後、改易されて浪人となっていた宗茂は、徳川家に御書院番頭として召し抱えられて久しい。生活も落ち着いてきたらしいと知り、清正は宗茂を訪れたのだった。
おそらく――宗茂は、誾千代の為、立花家を再建する為に高瀬を出た。その足がかりを掴んだら迎えに行くつもりだったのだろう。
「――お前は――」
「――」
「お前はいつも私の先を行くが、こればかりは私が先にいく。向こうで今度はお前に勝てるように準備して待っていてやるからゆっくりこい。髪が白くなって足腰が弱ってから来い。そんなお前になら勝てるだろう」
「えっ?」
「誾千代の伝言だ」
伝えたぞ――そう言うと清正は荒々しく立ち上がると、その荒々しさのまま障子戸を開き、廊に足音が響いて、そのまま、帰っていくのが分かった。
狭い屋敷だ。立花家の家臣たちが何事かあったのか慌てる様子、それに清正が誾千代の遺言を伝えたことを簡潔に話しているのまで聞こえてくる。
清正が開いたままにした障子戸から風が入ってきた。
懐紙の上の誾千代の髪が、頼りなく風に飛ばされそうになったので宗茂は慌てて、それを抑えて抱え込む。懐紙がぐしゃりと宗茂の胸で皺になる。
「あぁ、お前は本当に死んだのか――・・・・」
死――を初めて受け入れた。
受け入れてしまえばあとはただ静かだった。その静けさは切なさに揺れる。
夜、文机の上の誾千代の髪をただただ見つめた。
部屋は寒く、ひっそりと静まり返っている。家臣が火桶を、と言ったのを断った。寒いくらいは今の自分には丁度いいように思えた。
「この長さだと――胸元ぐらいまでは伸びていたのか?」
返ることのない問いかけをする。
見たかったな、と言いかけて止める。
髪が白くなり、足腰が弱った年取った自分が誾千代の元へ向かえば、そこにはきっと髪の長い若い姿のままの誾千代が待っているのだろう。
「それはそれで――卑怯だぞ」
宗茂は、ゆっくりと頬を動かして、そして、ははっと笑った。
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