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「こちらへいらっしゃい」
稲が言った。
そっと差し出された手に飛びついたのは孫六郎。
昌幸の膝の上に座っていた孫六郎は、母に呼ばれて弾かれるように飛びあがり、その腕の中に収まる。
こちらにいらっしゃい、と幸村は自分に言われたのかと思った。
幸村の視線に、ふわりと浮かべる義姉の微笑は、謎かけのような含み笑い。
沼田城を追い返された翌朝。
約束通り稲は、正覚寺に子供たちを連れてやって来た。
何もなかったかのように挨拶を交わし、孫にまなじりを下げていた昌幸だったが、孫六郎が母の腕に収まってしまったことに不服そうな顔した。
かと思えば、溜息を落とし、
「そろそろ行った方がいいか」
落ちた溜息が、その呟きを吸って、皮肉な色に染め変わる。それに稲は、瞼を細かく奮わせ、
「そうですね」
と言い、そっと視線を幸村に向ける。
その視線が「こちらへ・・・」と云っている。昌幸もそれに気付き、再び皮肉を含んだ鋭さで息子と嫁を見やる。
幸村は、答えなかった。ただ、しばらく稲を静かに見た。
やがて、瞳をかすかに微笑に揺らし、
「孫六郎」
と甥を呼ぶ。呼ばれた孫六郎はきょとんとしつつ、母の腕を離れ、幸村に近づく。兄によく似た眼差しを持つ甥は手で招きよせれば、素直に幸村の膝の上に収まる。
その甥をグッと左手で強く抱きしめ、傍に置いていた刀を抜いて稲に向ける。
「――っ!」
驚いたのは稲だけではなく昌幸も。ふたりの驚きなど気にもせず、しばし無言。
先に唇を開いたのは稲。
「子供を、人質にとったところで信幸さまのご決断は変わりません。信幸さまのご性格は、よくご存知でしょう?」
幸村は答えない。唇を湿らしもしない。が、言われて、頬に少しだけ色がさす。
「こちらへいらっしゃい」
幸村に言ったのか、孫六郎に言ったのか。稲の瞼を哀しげな苛立ちが縁取っている。
手を緩めれば逃げるものだと思っていた孫六郎が、じっと幸村を見つめる。あぁ本当によく兄に似ているな、と幸村は思う。兄の代わりにこの甥を貰っていくのもいいだろう。
「兄上には息子はもうひとりいる。孫六郎がいなくとも――」
「くだらない!」
ピシャリと幸村の言葉を、昌幸が遮る。幸村は父を見る。
沼田城に入り、城を乗っ取ろうとまでしたのに、なぜ孫を人質として手に入れて、兄と沼田城を手に収めようとしないのだろうか?
幸村にはそれが不思議に思えたが、
「孫六郎を連れて行ったところで信幸さまは、もうひとり息子がいるのだから捨てておけ、とでも言うでしょう」
と稲が言えば、昌幸は鼻先に軽い笑いを浮かべる。同感らしい。
幸村は稲に向けていた刀を下げ、孫六郎を解放する。
けれど、母の元に行こうとしない甥の背を押しながら、
「お別れだよ」
と微笑む。
それから顔を上げて稲を見つめる。
稲は唇を開きかけたが、それを溜息へと変えると、ゆっくりと瞬きをしてから、
「本当にこれでいいのですか?信幸さまと――」
稲の言葉を遮るように昌幸が、「行くぞ」と言いながら立ち上がる。
稲は唇を閉ざして、義父と義弟を見つめ、
「ご武運を・・・・」
ゆっくりと平伏した。
稲とは良好な義姉弟関係だったと幸村は思う。
いつしか遠慮もなくなり、互いの存在を尊重しあってきた。
稲は知っている、と幸村は気付いている。
自分の兄へ向けられた、この歪んだ感情に気付いていて、それでいて――。
確認したことなどはなく、する必要もないように思われた。
隠さないですむ相手がいることが幸村には救いだった。それが兄嫁であっても。
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稲が言った。
そっと差し出された手に飛びついたのは孫六郎。
昌幸の膝の上に座っていた孫六郎は、母に呼ばれて弾かれるように飛びあがり、その腕の中に収まる。
こちらにいらっしゃい、と幸村は自分に言われたのかと思った。
幸村の視線に、ふわりと浮かべる義姉の微笑は、謎かけのような含み笑い。
沼田城を追い返された翌朝。
約束通り稲は、正覚寺に子供たちを連れてやって来た。
何もなかったかのように挨拶を交わし、孫にまなじりを下げていた昌幸だったが、孫六郎が母の腕に収まってしまったことに不服そうな顔した。
かと思えば、溜息を落とし、
「そろそろ行った方がいいか」
落ちた溜息が、その呟きを吸って、皮肉な色に染め変わる。それに稲は、瞼を細かく奮わせ、
「そうですね」
と言い、そっと視線を幸村に向ける。
その視線が「こちらへ・・・」と云っている。昌幸もそれに気付き、再び皮肉を含んだ鋭さで息子と嫁を見やる。
幸村は、答えなかった。ただ、しばらく稲を静かに見た。
やがて、瞳をかすかに微笑に揺らし、
「孫六郎」
と甥を呼ぶ。呼ばれた孫六郎はきょとんとしつつ、母の腕を離れ、幸村に近づく。兄によく似た眼差しを持つ甥は手で招きよせれば、素直に幸村の膝の上に収まる。
その甥をグッと左手で強く抱きしめ、傍に置いていた刀を抜いて稲に向ける。
「――っ!」
驚いたのは稲だけではなく昌幸も。ふたりの驚きなど気にもせず、しばし無言。
先に唇を開いたのは稲。
「子供を、人質にとったところで信幸さまのご決断は変わりません。信幸さまのご性格は、よくご存知でしょう?」
幸村は答えない。唇を湿らしもしない。が、言われて、頬に少しだけ色がさす。
「こちらへいらっしゃい」
幸村に言ったのか、孫六郎に言ったのか。稲の瞼を哀しげな苛立ちが縁取っている。
手を緩めれば逃げるものだと思っていた孫六郎が、じっと幸村を見つめる。あぁ本当によく兄に似ているな、と幸村は思う。兄の代わりにこの甥を貰っていくのもいいだろう。
「兄上には息子はもうひとりいる。孫六郎がいなくとも――」
「くだらない!」
ピシャリと幸村の言葉を、昌幸が遮る。幸村は父を見る。
沼田城に入り、城を乗っ取ろうとまでしたのに、なぜ孫を人質として手に入れて、兄と沼田城を手に収めようとしないのだろうか?
幸村にはそれが不思議に思えたが、
「孫六郎を連れて行ったところで信幸さまは、もうひとり息子がいるのだから捨てておけ、とでも言うでしょう」
と稲が言えば、昌幸は鼻先に軽い笑いを浮かべる。同感らしい。
幸村は稲に向けていた刀を下げ、孫六郎を解放する。
けれど、母の元に行こうとしない甥の背を押しながら、
「お別れだよ」
と微笑む。
それから顔を上げて稲を見つめる。
稲は唇を開きかけたが、それを溜息へと変えると、ゆっくりと瞬きをしてから、
「本当にこれでいいのですか?信幸さまと――」
稲の言葉を遮るように昌幸が、「行くぞ」と言いながら立ち上がる。
稲は唇を閉ざして、義父と義弟を見つめ、
「ご武運を・・・・」
ゆっくりと平伏した。
稲とは良好な義姉弟関係だったと幸村は思う。
いつしか遠慮もなくなり、互いの存在を尊重しあってきた。
稲は知っている、と幸村は気付いている。
自分の兄へ向けられた、この歪んだ感情に気付いていて、それでいて――。
確認したことなどはなく、する必要もないように思われた。
隠さないですむ相手がいることが幸村には救いだった。それが兄嫁であっても。
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