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「兄上と争うことになったら逃げます」
と、幸村が言ったのはいつのことだったか。昌幸は記憶を探る。
幸村は今、上田城の一室で父と向かい合いながら、視線をぼんやりと泳がせている。
どこを見ているのやら、とも思いつつ、遠い記憶を手繰り寄せ、一枚一枚紙をめくるように探してみれば、簡単に見つかった。
まだ兄弟が子供で兵法などを学び始めたばかりの頃、戯れに聞いた。
「兄弟で争うことになったらどうする?」
父の言葉に、信幸は軽く笑った。幸村は口をへの字に曲げた。
「致し方ない状況なら、弟とはいえ戦うしかないでしょう」
「兄上と争うことになったら逃げます」
ほぼ同時に言った兄弟の言葉に、昌幸は声をあげて笑った。
そして今、あの頃の言葉のままに戸石城を開け渡してきた息子に、乾いた笑いを洩らした。
突然笑いを洩らした父に驚いたのか、ぼんやり泳がせていた視線を幸村は父に向ける。
昌幸はにやりと笑う。
幸村は、わずらしげに眉をひそめ、それを退けた。
「しかし、面白いな」
「何がですか?」
昌幸は答えない。幸村も重ねて尋ねることはしないけれど、短い沈黙の後、
「面白い・・・ですか」
呟いて再び視線を泳がせ、ふっと細めたかと思うと、そのまま閉じる。
上田は今、徳川軍に進撃されている。
その状況を楽しんでいるのか、それとも、他の何かを――幸村がどう思っているのか分からないが、昌幸は再び頬を揺らした。
「信幸と・・・」
ぴくり幸村の瞼がぴくり反応する。
「いや、なぜお前はなぜ豊臣についた?」
「このたびの戦は、三成殿に義があります。友としてひとりの武将として義を重んじました」
「義・・・か」
呟きを落とす唇の端を昌幸は、皮肉気に歪ませながら、あの時――信幸が稲との結婚話を幸村にと言った――そうなっていたのなら、どうなっていたのだろうとふっと考える。
部屋にきっちりと座り込んだまま、信幸は身動きもしない。
顔をかすかに伏せ、そのくせ目線だけは真っ直ぐに前を向け――けれどもそれは、目の前のものを見るためではなく、己の身のうちに広がるものをかえりみるかのようで、稲は声をかけることを躊躇った。
関ヶ原で合戦が起きた。勝利したのは徳川。
しかし、昌幸と幸村は上田城に篭り、決戦を辞さない構えでいる。
父弟の今後を考えているのだろう。
稲は、溜息をつきたい気持ちを堪えて、すっと視線をずらした時、
「――本多の義父上は」
信幸の唇がスッと割れた。
ともすれば見逃してしまいそうなほど低く掠れたその言葉を、稲はかろうじて受け止め、
「父が何でしょうか?」
「本多の義父上は、力を貸してくれるでしょうか?」
「助命嘆願にですか?」
信幸が、視線を稲に向ける。
稲はそれに頷き、頬に笑みを浮かべる。父が信幸に好意的であり、その人柄に惚れていることは稲はよく知っている。
「私からも父にお願いします」
「ありがとう」
稲はかすかに瞳を揺らし、小さく頷く。
「稲との婚姻の話が来た時、幸村に任せるつもりでした」
「えっ?」
稲の頬に戸惑いが走るのも気にせず信幸は続ける。
「そうなっていたのなら、幸村はどちらへついただろうか?」
「そうなってましたら、信幸さまはどちらへつかれましたか?」
問いを問いで返した稲に、信幸はふっと笑うと、
「これで良かったのでしょう」
と、呟いた信幸の言葉尻が、重たげな憂いを含んで、ぽつり落ちる。
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と、幸村が言ったのはいつのことだったか。昌幸は記憶を探る。
幸村は今、上田城の一室で父と向かい合いながら、視線をぼんやりと泳がせている。
どこを見ているのやら、とも思いつつ、遠い記憶を手繰り寄せ、一枚一枚紙をめくるように探してみれば、簡単に見つかった。
まだ兄弟が子供で兵法などを学び始めたばかりの頃、戯れに聞いた。
「兄弟で争うことになったらどうする?」
父の言葉に、信幸は軽く笑った。幸村は口をへの字に曲げた。
「致し方ない状況なら、弟とはいえ戦うしかないでしょう」
「兄上と争うことになったら逃げます」
ほぼ同時に言った兄弟の言葉に、昌幸は声をあげて笑った。
そして今、あの頃の言葉のままに戸石城を開け渡してきた息子に、乾いた笑いを洩らした。
突然笑いを洩らした父に驚いたのか、ぼんやり泳がせていた視線を幸村は父に向ける。
昌幸はにやりと笑う。
幸村は、わずらしげに眉をひそめ、それを退けた。
「しかし、面白いな」
「何がですか?」
昌幸は答えない。幸村も重ねて尋ねることはしないけれど、短い沈黙の後、
「面白い・・・ですか」
呟いて再び視線を泳がせ、ふっと細めたかと思うと、そのまま閉じる。
上田は今、徳川軍に進撃されている。
その状況を楽しんでいるのか、それとも、他の何かを――幸村がどう思っているのか分からないが、昌幸は再び頬を揺らした。
「信幸と・・・」
ぴくり幸村の瞼がぴくり反応する。
「いや、なぜお前はなぜ豊臣についた?」
「このたびの戦は、三成殿に義があります。友としてひとりの武将として義を重んじました」
「義・・・か」
呟きを落とす唇の端を昌幸は、皮肉気に歪ませながら、あの時――信幸が稲との結婚話を幸村にと言った――そうなっていたのなら、どうなっていたのだろうとふっと考える。
部屋にきっちりと座り込んだまま、信幸は身動きもしない。
顔をかすかに伏せ、そのくせ目線だけは真っ直ぐに前を向け――けれどもそれは、目の前のものを見るためではなく、己の身のうちに広がるものをかえりみるかのようで、稲は声をかけることを躊躇った。
関ヶ原で合戦が起きた。勝利したのは徳川。
しかし、昌幸と幸村は上田城に篭り、決戦を辞さない構えでいる。
父弟の今後を考えているのだろう。
稲は、溜息をつきたい気持ちを堪えて、すっと視線をずらした時、
「――本多の義父上は」
信幸の唇がスッと割れた。
ともすれば見逃してしまいそうなほど低く掠れたその言葉を、稲はかろうじて受け止め、
「父が何でしょうか?」
「本多の義父上は、力を貸してくれるでしょうか?」
「助命嘆願にですか?」
信幸が、視線を稲に向ける。
稲はそれに頷き、頬に笑みを浮かべる。父が信幸に好意的であり、その人柄に惚れていることは稲はよく知っている。
「私からも父にお願いします」
「ありがとう」
稲はかすかに瞳を揺らし、小さく頷く。
「稲との婚姻の話が来た時、幸村に任せるつもりでした」
「えっ?」
稲の頬に戸惑いが走るのも気にせず信幸は続ける。
「そうなっていたのなら、幸村はどちらへついただろうか?」
「そうなってましたら、信幸さまはどちらへつかれましたか?」
問いを問いで返した稲に、信幸はふっと笑うと、
「これで良かったのでしょう」
と、呟いた信幸の言葉尻が、重たげな憂いを含んで、ぽつり落ちる。
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