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新妻を放っておくなんて、本当にダメな人。

そう言った女は、頬に微笑なのか苦笑なのか分からない笑みを浮かべる。
綺麗な人だ、と稲は思う。
豊かな漆黒の髪が肩からこぼれるだけで、唇が小さく吐息するだけで、細い指が軽やかに揺れるだけで、甘い粒子がきらきらと輝いているようかの見える。
思わず見とれる稲に、その女―あやめは小首を傾げて、にこやかに微笑む。
側室であるあやめが、正室である稲に挨拶に来た。
稲が嫁ぐことなった折に別宅を与えられ、そこで暮らしている。
打診を受けた時、思案したが断るのもおかしいのであやめと面会した。
正直会いたい―というよりも見てみたい気持ちが稲の中にあった。

――この方と比べられたら。

気が強そう、と言われるのも仕方がないと稲は納得する。
確かに気が強い――稲自身分かっている。
けれど、腹の奥にキュッと絞られるような痛みを感じていたが、

「私と信幸様は従姉妹という間柄故、付き合いが長いから、と思ってお聞きくださいね。あの方は、そういう方ですよ」

あやめは、いたずらっぽい笑いを唇に揺らし、えっ、と言った稲にふふふっと優しげな含み笑いを見せる。

「あの方は、そうですね・・・、あまり男女の心の機微には関心がないというか・・・。いえ、他のこともいろいろと思慮深く考えているようで、何も考えていないような、そんなところがあるから―・・・。それはもう子供の頃から」

そこまで言ってあやめは、ふいに唇を手で覆い隠すと、ちらりと稲の様子を伺うように見た。自分よりも年上の女性だが、稲にはその仕草が可愛らしく思えた。
自分の方が信幸のことを知っているということを言い過ぎたと思ったのだろう。けれど、それをわざわざ何か言うのも言い訳じみて、逆にいやらしいと思っているのだろうと稲は思った。なので、

「信幸様はどのような子供でしたの?」

にこりとして尋ねると、あやめはほっとしたような顔をする。

「可愛くない子供でしたよ。何をするにもいつも幸村様に引っ張られてました」
「――なんだが・・・想像がつくような」

兄上兄上、と子供の頃から幸村は信幸に引っ付き回っていたのだろう。けれど、幼い兄弟で想像するととても微笑ましくて稲の頬に笑みが浮かぶ。

「けれど、ふたりとも今は小山田茂誠様に嫁がれた姉上には適わなかったものです」

ふと遠いものの輪郭を捉えるようにあやめは、目を細める。
稲も同じものをみようと思ったけれど、分からなかった。
それは過ぎた日を懐かしむものなのか。
稲の目にはまた映ることのない何かなのか。
稲には分からない。
けれど、分かることがひとつ。
なんとなくだけど、あやめとはうまくやっていける、と感じた。

 ※


真田家と北条は領土をめぐって争っていた。
徳川が沼田領を北条へ引き渡すことを要求してきたが拒否。
結果、合戦となり真田家が勝利したが、元々は小領主にしか過ぎない真田家が、策を講じつつもよくもまぁやったものだ、と信幸は今更ながら思う。
あの時の父のように策を講じて出し抜いていくことなど自分には出来ないと思う。
本多忠勝に見込まれ婿に――そう云われたが結局のところ、徳川家は父である昌幸を恐れ、自分を配下に取り込みたいだけのこと。
これもまた一種の人質ではないだろうか。
信幸は、秀吉の元へいっている幸村を見れば、視線に気付いた幸村が、視線を合わせてくる。先に馬を走らせていた幸村だったが、速度を落とし信幸の脇につく。

小田原には入らず、その周辺を見て回り、帰る途中。
なんとなく信幸にも、小田原征伐がどう動いていこうとしているのか分かり、真田家も出陣することになることは分かっているが主戦局ではないだろうと読んだ。
北条の配下の城攻めを命じられる。そんな気がした。


「お前は、まだ秀吉様のところに戻らなくていいのか?」
「母上が私と兄上に話があるそうなので、それを聞いてから戻ろうと思ってます」
「母上が・・・?」

信幸は、ほんの少し眉をひそめる。
母である山手殿は善良な女性だ。善良であるが故に、時折面倒臭い。


「面倒なことでなければいいが・・・」

ぽつりとそう零せば、幸村は苦笑する。

「幸村が聞いてきて、話だけ伝えてくれないだろうか」
「嫌ですよ。荷が重い」

幸村は、山手殿が実母ではないと知った時、ひどく哀しかった記憶だけが残っている。
とても優しく、愛したがりの母だ。
だから、手元を離れていく兄弟を前にすると、寂しい寂しいと零す。
それが兄弟には時に、荷が重い。



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