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2024/11
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話し声がぽつりぽつり聞こえる。
稲は、夫の部屋の前に立つ。一度、瞼を伏せてから声をかけ、障子戸を開けようとした瞬間、それが開かれた。

「母上でしたか」

開いたのは息子の信吉。
背を抜かれて久しい息子を稲は見上げる。信吉は母を見て、それから父に振り返る。
息子の視線に、信之が小さく頷けば、信吉はそのまま部屋を出て行った。
廊を行く息子が角を曲がり、姿が見えなくなってから、稲は部屋に入ると、夫の前に静かに腰を下ろす。

「信吉から、大坂での話を聞いてました。幸村に会ったそうだ」
「――そうですか・・・。幸村に・・・」

幸村が大坂城入りし、そして、起きた戦。
信之は体調不良を理由に参陣しなかったが、息子たちを送り込んだ。
この戦で大坂方の白眉は幸村であった。真田丸での奮戦で、徳川方を切歯扼腕させたものの、講和が結ばれた。幸村にとっては悔しいことだろう、と稲はどこか他人事のように思いつつ、

「信州に所領を、不服なら信濃一国、だそうです」

夫の目を、はたと見据える。それを受けて信之は、双眸を軽く細めながら、

「それはすごい」

と感情が読み取れない視線だけが稲に与えられた。
家康から、幸村が寝返るのならば、信州に所領を、不服なら信濃一国を与える、だから、信之をとおして幸村を説得するようにと書かれた文が届いたのは今日の昼過ぎ。
それを繰り返し読んで、信之にどう伝えるか思案しているうちに時間が過ぎてしまった。

「けれど、幸村は応じないでしょう」
「信之さまのご説得なら」

ふっと信之は笑う。
けれど、それは頬を動かしてそう見せているだけで、口許は笑っていながら、見せかけの笑いであることはすぐに分かる。
一度、と信之が言う。

「一度、幸村は私の手を取ることを拒否した」
「それは」
「それなのに、信濃一国を餌にしたところで、寝返るわけがない。幸村のことは、誰よりも知っている」
「本当に・・・?幸村の何もかもご存知だと言うのですか?」

挑むように、稲は夫を見据える。
沈黙が部屋を埋めた。
無言のまま時間が過ぎ、灯りが灯さないと薄暗くなり始めた。それほど離れて座っているわけでもないのに、互いの表情が見えにくくなった。

――真田家の兄弟間の問題に立ち入り過ぎているのだろうか?

次第に冷えた頭で、稲はそう考えた。
けれど、真田家の当主の妻としては当然の心配事であろうと稲は自分に言い訳をして、吐息をひとつ洩らした。きっと信之は何も答える気がないだろう。このまま引くべきだと判断する。

「感情的になり過ぎました。申し訳ありません」

詫びて、稲は立ち上がる。信之も視線で妻を追う。
障子戸を開けば、僅かに入り込んできた外の光によって信之の表情が見えたが、その瞳からは変わらず、何を考えているのか読み取れない。

「稲」

呼ばれて、稲は僅かに首を傾げる。

「では、幸村はどうすればいいと稲は考えているのですか?」
「えっ?」
「徳川に寝返り、信濃一国を治める。それが幸村がいくべき道ですか?」
「――・・・それは」

稲は、言葉を詰まらせる。
脳裏に浮かぶのは、「義姉上は、いいですね。羨ましい」と言った時の睨むような、羨むような義弟の顔。
幸村は所領が欲しいわけではない。幸村の望みは――?

「ただ・・・、私には今の幸村は破滅への道を辿っているとしか思えないのです」
「それが幸村の道ですよ」
「見殺しになさるおつもりですか?!」

稲の言葉に信之は、薄く笑った。嘲笑とも冷笑とも取れぬ笑み。
やがて、微笑は消える。

「幸村は、もう死んでいるも同然です」
「えっ?!」

稲は大きく目を見張る。虚ろな光を湛えた双眸が、稲を見据える。

「私がそう仕向けた」
「それは・・・」

言いかけ、稲は声が詰まった。夫の言葉の奥にあるものは分からず、心が震えた。

――信之さまは、幸村が死ぬことを望んでいる?

けれど、なぜ?!

「離縁されてしまえば私は赤の他人ですよ。けれど、兄弟の縁といいますか、繋がりは生涯消えることはないではありませんか」

かつて自分は義弟にそう言ったことがある。
兄弟の繋がり。羨んだ繋がり。切れることのない繋がり。

「――死んでしまえば終わり・・・ですよ。命があれば・・・」
「死んで初めて・・・」

言いかけて信之は首を振ると、視線を固める。もう何も話す気はないのだろう。
稲は、夫との間に、目に見えぬ透明な厚い壁を感じた。



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