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閉じた瞼に、ぎゅっ・・・と力をこめた、その時。
突然、
――信之さま
ひそやかな稲の声がしたので瞼を開いた。
体調を崩していた。ぐずぐずと病の衣を脱ぎ捨てることが出来ない日々を過ごしていた。こんなことをしている場合ではないと焦る気持ちが逆に、病を悪化させていた。
再び起きようとしていた徳川と豊臣の戦い。
そんな時期になぜ、自分は――ぎりぎりと歯噛みしたい気持ちを持て余していた。
ひそやかな稲の声に瞼を開けば、稲がそっと支えてくれ、上半身を起こした。
「どうしたのですか?」
珍しく慌てた稲の様子に、信之が妻の髪に手を伸ばしかけた時。
気配がした。
一体誰が――視線で問いかければ稲は、
「幸村さまからの使いです」
はっきりと答えると、すすすっと立ち上がって、障子を開けば、縁に商人風の男が頭を垂れていた。稲はその男が持ってきたという幸村からの文を、信之の前で開く。
幸村の大坂城入りは聞いていた。
そして、その幸村からの文を目で辿れば、ぐらりと眩暈がした。
正体の知れない影が、胸の奥まで染み込んできて、心が闇に包まれる。視界がぐらりと揺れた。そんな信之を支えたのは稲。
「幸村の大坂城入りは――私の為だというのか」
このまま徳川で飼い殺しになっているべきではない。
真田家が大坂入りすれば、先の関ヶ原で徳川についたものの、豊臣に心を寄せている諸大名を引き寄せることが出来る。そして、その後は――。
真田で豊臣を支えながら政権を握り、兄上が才を生かした安寧を維持した世を作り上げる。
幸村の文にはそんなことが書かれていた。すぅと指の先が冷えていく。
「――幸村は一体――・・・」
支えてくれる稲の腕の中で、信之はぽつり呟いた。
なぜ幸村は――。
幸村は、無欲の男だと思っていた。
けれど、本当は死んだ父よりも欲深い男だったのか?!
けれど、その欲深さの心底にあるのは・・・。
「――帰れ。そして、幸村に伝えろ。真田は大坂にはつかない」
反論しようとした男を一睨みすれば、男は怯んだ。
そのまま、何も言えなくなったのか、溜息と共に立ち上がると去って行った。
「よろしいのですか?私は、信之さまが――」
「稲!」
出る限りの力を振り絞って、怒鳴って稲の声を遮る。
「稲、私の望みは真田の家を残し、それに仕えてくれるすべての皆の命を守ることであって、政権闘争には巻き込まれたくない」
「信之さま・・・」
なぜ幸村には分からない――苦々しく言えば、稲がきつく抱きついてきた。
そんな稲を見れば、苦しげに目を細めていた。しばらく、そうして何かに耐えるように黙っていたが、
「――私が、止めます」
睫毛を震わせながら、そう言った。
「私が伝えます。信之さまのお気持ちを、私が――・・・」
ゆっくりと決意を込めた声音で稲は、そう告げると、力なく微笑んだ。
そんな妻に胸が熱くなった。熱い涙が、瞳を、睫毛を、頬をあたたかく落ちていく。
瞼を閉じて稲を抱きしめた。
きつくきつく抱きしめた――はずだった。
なのに、何もかも弾けた。すべてが消えた。
驚いて瞼を開けば、そこに広がるのは何もない無の空白の世界。
すべては夢――だという自覚は確かにあった。
「――ただいっとき、昔に戻れることがあったならいつに?」
そう問われて、考えながら夢に落ちていった。
「答えは出ましたか?」
再び問われた。その声の主は――・・・。
その姿は空白の彼方からゆっくりと歩いてくる。昔と分からぬ姿で、真っ直ぐに信之に向かって歩いてくる。
「あぁ。昔に戻りたいと思う気持ちがあったが――」
戻る必要はないようだ、と信之が微笑すれば、声の主は変わらぬ笑顔で、
「そう言うと思いました」
そう答えた。信之はそれに静かに頷く。
自分が昔に戻りたいと願ったのは逝ってしまった人に会いたかったから。
だから、会えた今、もうどうでもいい。見送るのはもう飽きた。
「永い永い生涯だった」
「こちらも皆、待ちくたびれてましたよ」
ふっ、と信之は胸に微笑を滲ませる。
声の主は、そっと信之に手を差し出してくる。その手を信之はしっかりと掴む。
「私はもうこんな老人になってしまったのに、お前はいつまでも若いな」
信之が言えば、声の主も笑う。そして、信之を呼ぶ。
すると、呼ぶ声がじょじょに増えた。
あの声は――稲。
あの声は――父上。
あの声は――幸村。
あの声は――義父の本多忠勝。
あの声は――石田三成。
あの声は――・・・。
降り積もる声に、信之は胸が熱くなる。
熱くなった胸に瞼を閉じて、夢を繰り広げる。
もう別れも、諍いもない安寧の世界に夢を繰り広げる。
何事も移れば変わる世の中を 夢なりけりと思ひ知らずや
<終わり>
【前】
突然、
――信之さま
ひそやかな稲の声がしたので瞼を開いた。
体調を崩していた。ぐずぐずと病の衣を脱ぎ捨てることが出来ない日々を過ごしていた。こんなことをしている場合ではないと焦る気持ちが逆に、病を悪化させていた。
再び起きようとしていた徳川と豊臣の戦い。
そんな時期になぜ、自分は――ぎりぎりと歯噛みしたい気持ちを持て余していた。
ひそやかな稲の声に瞼を開けば、稲がそっと支えてくれ、上半身を起こした。
「どうしたのですか?」
珍しく慌てた稲の様子に、信之が妻の髪に手を伸ばしかけた時。
気配がした。
一体誰が――視線で問いかければ稲は、
「幸村さまからの使いです」
はっきりと答えると、すすすっと立ち上がって、障子を開けば、縁に商人風の男が頭を垂れていた。稲はその男が持ってきたという幸村からの文を、信之の前で開く。
幸村の大坂城入りは聞いていた。
そして、その幸村からの文を目で辿れば、ぐらりと眩暈がした。
正体の知れない影が、胸の奥まで染み込んできて、心が闇に包まれる。視界がぐらりと揺れた。そんな信之を支えたのは稲。
「幸村の大坂城入りは――私の為だというのか」
このまま徳川で飼い殺しになっているべきではない。
真田家が大坂入りすれば、先の関ヶ原で徳川についたものの、豊臣に心を寄せている諸大名を引き寄せることが出来る。そして、その後は――。
真田で豊臣を支えながら政権を握り、兄上が才を生かした安寧を維持した世を作り上げる。
幸村の文にはそんなことが書かれていた。すぅと指の先が冷えていく。
「――幸村は一体――・・・」
支えてくれる稲の腕の中で、信之はぽつり呟いた。
なぜ幸村は――。
幸村は、無欲の男だと思っていた。
けれど、本当は死んだ父よりも欲深い男だったのか?!
けれど、その欲深さの心底にあるのは・・・。
「――帰れ。そして、幸村に伝えろ。真田は大坂にはつかない」
反論しようとした男を一睨みすれば、男は怯んだ。
そのまま、何も言えなくなったのか、溜息と共に立ち上がると去って行った。
「よろしいのですか?私は、信之さまが――」
「稲!」
出る限りの力を振り絞って、怒鳴って稲の声を遮る。
「稲、私の望みは真田の家を残し、それに仕えてくれるすべての皆の命を守ることであって、政権闘争には巻き込まれたくない」
「信之さま・・・」
なぜ幸村には分からない――苦々しく言えば、稲がきつく抱きついてきた。
そんな稲を見れば、苦しげに目を細めていた。しばらく、そうして何かに耐えるように黙っていたが、
「――私が、止めます」
睫毛を震わせながら、そう言った。
「私が伝えます。信之さまのお気持ちを、私が――・・・」
ゆっくりと決意を込めた声音で稲は、そう告げると、力なく微笑んだ。
そんな妻に胸が熱くなった。熱い涙が、瞳を、睫毛を、頬をあたたかく落ちていく。
瞼を閉じて稲を抱きしめた。
きつくきつく抱きしめた――はずだった。
なのに、何もかも弾けた。すべてが消えた。
驚いて瞼を開けば、そこに広がるのは何もない無の空白の世界。
すべては夢――だという自覚は確かにあった。
「――ただいっとき、昔に戻れることがあったならいつに?」
そう問われて、考えながら夢に落ちていった。
「答えは出ましたか?」
再び問われた。その声の主は――・・・。
その姿は空白の彼方からゆっくりと歩いてくる。昔と分からぬ姿で、真っ直ぐに信之に向かって歩いてくる。
「あぁ。昔に戻りたいと思う気持ちがあったが――」
戻る必要はないようだ、と信之が微笑すれば、声の主は変わらぬ笑顔で、
「そう言うと思いました」
そう答えた。信之はそれに静かに頷く。
自分が昔に戻りたいと願ったのは逝ってしまった人に会いたかったから。
だから、会えた今、もうどうでもいい。見送るのはもう飽きた。
「永い永い生涯だった」
「こちらも皆、待ちくたびれてましたよ」
ふっ、と信之は胸に微笑を滲ませる。
声の主は、そっと信之に手を差し出してくる。その手を信之はしっかりと掴む。
「私はもうこんな老人になってしまったのに、お前はいつまでも若いな」
信之が言えば、声の主も笑う。そして、信之を呼ぶ。
すると、呼ぶ声がじょじょに増えた。
あの声は――稲。
あの声は――父上。
あの声は――幸村。
あの声は――義父の本多忠勝。
あの声は――石田三成。
あの声は――・・・。
降り積もる声に、信之は胸が熱くなる。
熱くなった胸に瞼を閉じて、夢を繰り広げる。
もう別れも、諍いもない安寧の世界に夢を繰り広げる。
何事も移れば変わる世の中を 夢なりけりと思ひ知らずや
<終わり>
【前】
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