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呼ばれた。自分を呼ぶ声がする。
瞳を閉じ、静寂に頬を寄せ、声の旅路を辿っていると、呼ぶ声が増えた。
いくつもの声が重なって、降り積もる。
あの声たちは――もういない人たち。
逝ってしまった人たちの声が、信之を呼ぶのを聞いた。
あの声は――稲。
あの声は――父上。
あの声は――幸村。
あの声は――義父の本多忠勝。
あの声は――石田三成。
あの声は――・・・。
すべての声が、信之の中にじわりと沁み込んでくる。
あぁ、懐かしいと涙が零れてきそうになれば、途切れなく続いていた声がふっ・・・と弱くなった。すがりつくように手を伸ばせば――。
「信之さま」
現実の声に呼ばれた刹那、煙に巻かれるように声が消こえなくなった。
消えた声に未練を感じながら、そっと目を開けば、見慣れた天井が視界に広がる。
「信之さま」
再び呼ばれて、唇の端に薄い笑みを浮かべる。
支えられて上半身を起こせば、それだけで息が自然と洩れる。疲れた。口には出さないがそう思う。家臣の鈴木忠重こと右近が、大丈夫ですか、と声をかけてくるが、お前こそ大丈夫かと問いたい気持ちを抑えて信之は笑う。
驚くほど長く生きた。
だいぶ年下であるはずの右近の顔を見れば、そこにいるのは老人。
そして、それよりも老人である自分。こんなに長く生きるとは思いもしなかった。
しかしながら、老いた信之はふと思うことがある。
――ただいっとき、昔に戻れることがあったなら・・・。
信之は真田家の為、ひいてはそれに仕えるすべての人の為に全力を尽くしてきた。それだけを信じ、強者に従い、立ち止まることなく生きてきた。心の安寧を望みながら、それは叶わず乱世を生きた。
乱世が終わったと思えば、違う嵐が吹く。そんな人生の繰り返しだった。
経てきた年月など数える気にはならない。
なのに、最近やけに思い出すのは関ヶ原から大坂の陣の頃。戻れるのならば戻って――どうするつもりなのだ。
「信之さま?」
右近の心配そうな声に首を振ると、静かに襖が開かれた。
顔を出したのは次女のまさ。一度嫁いだが、夫に先立たれ、真田家に戻ってから信之とともに一緒にいる娘。まさの顔を見れば信之の顔は自然と綻ぶ。
死んだ妻――稲にそっくりなのだ。そのまさも稲が死んだ年齢を過ぎた。まさを見れば、稲もこう年をとったのだろうと信之は、娘に妻を重ねる。
「父上、薬湯をお呑みになりますか?」
まさの問いかけに信之は首を振る。必要ない。
体が弱っているのは寿命なのだ。命を惜しむような薬はもう自分には必要がない。まさも無理強いはしない。ふっ・・・とまなじりに笑みを浮かべて、寂しそうに微笑む。
「本当によく稲に似ているな」
「またその話ですか」
くすくすっとまさは笑う。その笑顔もそっくりだと信之は思う。
稲は娘たちには剣術も弓も教えなかった。東の無双と言われた本多忠勝の娘で、その背を見て育ち、戦場を駆けた女であったが、娘たちには護身のための短刀の扱いしか教えなかった。
本多忠勝の娘であることを誇っていた稲だったから、娘たちにも同じ道を進ませるかと思えば、そうはしなかった。もう女に刀も弓も必要のない時代が来るのですから、と微笑んだのは、いつのことだったか――。
あれは大坂の陣の終わった頃――のような気がする。
自分の弟である幸村と弓と槍を合わせた後のこと。
その時の状況を説明し終えた稲は、ほぉぉっと大きく溜息を落として、
「幸村さまは、きっとどこかで生きてます。だから、生きて真田の家を守らないといけないと思いました。帰ってきた時に、笑顔で迎えられるように・・・」
にこりと微笑んで、それから、ふふふっと含み笑いをした。
稲にそう言われると信之もそんな気持ち――幸村はどこかで生きている――になったものだ。
「もう戦は――ないでしょう。もう女に刀も弓も必要のない時代が来るのですから」
ぽつり呟いた稲の言葉を信之は拾うことはせずに、黙って聞いたものだ。
今、信之はまさを見ていると稲と呼びかけたくなる。
稲――。
お前がいった幸村を笑顔で迎えられる真田家に私は出来ただろうか・・・。
いいや、駄目だな。
自嘲するように頬を揺らしてから、
「まだ休みたい」
まさと右近にそう言えば、ふたりは静かに下がっていく。
ひとり残った信之は、再び瞼を閉じる。閉じられた瞼裏に浮かぶのは――・・・・。
そして、再び声が聞こえてくる。呼びかけてくる声。
あの声は――・・・・。
あぁ、と寂しさに沈んでいた心が、温かくなった。
やっと――・・・・。
声を洩れそうになった時。
「――ただいっとき、昔に戻れることがあったならいつに?」
声の主がそう言った。
にこりと微笑んで、静かな声音。
その問いかけに、信之はふっ・・・と微笑む。
そうだな。
戻れるならば――・・・。
閉じられたままだった瞼をゆっくりと開く。
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