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照りつける太陽に混じって、蝉の声が庭に降り注ぐ。
雨の季節を終えたばかりで、生い茂る草木の色は深い。
徳川屋敷の一室。
「このコは、真田殿似かのう?」
家康が忠勝に同意を求めるように言う。家康の言う真田殿とは、昌幸のこと。
「真田の血筋が濃いのでしょうね」
忠勝が答える。
孫六郎の生母、あやめは昌幸の兄である真田信綱の娘。
家督を継いだ昌幸が、真田家の結束を固める為に信幸とあやめを結婚させた。そのふたりから生まれたことを思えば、真田家の純血ともいえる。
大人たちの視線など気にもならないのか、回りきらない舌でたどたどしいながら挨拶を終えた孫六郎は、家康の前にちょこんと座り込んで、貰った南蛮菓子を夢中で眺めている。
家康が、前から手を出し、ひとつつまむと、孫六郎の口にそっと入れる。
「・・・あまい!」
「そうだろう。こんぺい糖というものだ」
ふたりの瞳が、同時に緩んだ。
孫六郎もひとつつまむと家康の口に押し付ける。
家康は笑いながら、それを口に含んで、こりこりと音をたてて食べる。
孫六郎は、もうひとつ手に取り、食べるのかと思ったが、貰った包みに戻すと、
「仙千代にもあげるの!一緒に食べるの」
信幸に振り返る。
「仙千代はまだ食べられない」
「じゃあ、取っとく!」
「溶けてしまう」
うー・・・、と考え込む孫六郎に、家康が笑いながら、
「仙千代が食べられる年頃になったら、仙千代にでもあげよう」
と言えば、孫六郎はうんと大きく頷く。
家康が手を差し出せば、何のためらいもなくその膝に乗る。
ずっと楽しげに笑っていた家康を何をそんなに面白いのだろうと信幸が見ていると、ふと笑いを沈めた家康が、
「稲と同じことをして、同じことを言う」
「えっ?」
「幼い稲にこんぺい糖を与えた時も、弟に持って帰ると言っていた」
「そのようなことがあったのですか?」
忠勝も知らなかったらしい。
血は繋がっていなくとも近くにいれば性格は似るものなのだろう、と家康が言うので、忠勝は孫六郎をまじまじと見る。その視線に気付いたのか、小首を傾げて視線を返していた孫六郎だったが、家康の膝からぱっと立ち上がると、そのまま忠勝の膝に乗ってしまう。
「人懐こいな。稲も確かにこういう子供だった・・・」
突然のことに驚く忠勝だったが、ふと愛娘の子供の頃に思いをはせるようにまなじりを下げる。
「愚弟、幸村の幼い頃にも似てます」
「では、立派なもののふとなるだろう」
どこか幸村に似ている――つねづね信幸はそう思っていた。
血の繋がらない母に育てられるという境遇が似ているからなのだろうか?
「その弟より聞いたのですが、殿下のご調子が悪いようですか」
「落差が激しいようだ。それに夢見が悪いらしい――」
「夢見が?」
「信長様の夢を見るらしい。地獄に引きずり落とされる夢を見ると、そんなことを洩らした」
「――・・・」
信幸は、信長を見たことがない。
真田家は一時、織田家に下っていたものの、その姿を見ることはなかった。
話を聞いて、その人物像を想像するしかない。けれど、多くの人間に多大な影響を与えていることは分かっている。
秀吉も家康もそうだ。
信長に成り代わって、天下をとった秀吉。
大業を果たした秀吉だったが――。
「実は――弱い方なのかもしれませんね」
朝鮮への出兵も信長が語っていたことだと家康が言っていたことを信幸は思い出す。
以前は年老いて、感情の歯車がおかしくなり、そんなことを言い出したのかと思ったけれど、本当は信長への罪滅ぼしのつもりで、その夢を叶えようとしていたのではないだろうか。
「そうかもしれないな。」
家康が言う。
天下をとったものの、信長の亡霊から逃れないでいるのかもしれない。
天下を取るまでが、秀吉が秀吉らしくいられた最後なのではないか?
「もう――見たくない」
家康が零した呟きの意味を、信幸は受け止めかねる。
※
「綺麗な側面しか見せてくれなかった人を忘れるのは大変よ」
あやめのその言葉に、稲はくのいちと顔を合わせる。
沼田城にやってきたあやめは、膝で眠ってしまった仙千代を抱きながら、そんなことを言った。
あやめが沼田城に来るのは珍しいことではない。
あやめもくのいちの片思いは知っているらしく、珍しく幸村もいないのにくのいちがいることを驚きつつ、事情を察したらしい。
「幸村は――、いつかは相手を傷つけてしまうようなことが起きることのあれば、知らせなければいい。それが優しさと信じて、行動する人だと思うの」
「知らせれば―、相手をつらくさせてしまうような?」
「そう。幸村がくのいちに手をつけるのは簡単よ。珍しいことじゃないわ。でも、そうしなかったのは、自分がいつか家の為に他の女を娶らないといけないと分かっていたからだと思うの」
「でも、それでは――」
幸村も自分を想ってくれている――それが前提の話でしかない、とくのいちは唇を尖らせる。
「でも、くのいち。もしかしたら――と思ったことはあるのでしょう?」
「ただの自惚れです!」
そうかしら、あやめは、ふふふっと優しげに頬に笑みを浮かべる。
甘い期待がくのいちの胸の奥から、やわらかく上がってくることがあったのも事実。
幸村さまは――もしかして、私を想ってくれる気持ちがあるのではないか―と。
でも、その甘さを必死に否定していたのもくのいち自身。
信幸に向かって、
「結婚して子供を作る。それは女としての幸せだよ。でもね、女の幸せのカタチはそれだけじゃない。好きな人の幸せを守るために戦うのも女の幸せだよ――ううん、忍びの幸せかも」
そんなことを言ったことも本音。
それでも、甘い期待に胸を震わせることを止めることは出来なかった。
儚い恋心は、ゆらゆらと揺れ続ける。
「信じたくないのなら信じなくてもいいのよ。だって、私の勝手な想像だもの」
でもね、そんな勝手な優しさを残された相手は辛いだけ、そう言ってあやめは、瞼を閉じる。再びゆっくりと開かれた瞼の奥の瞳を翳らせると、
「綺麗な側面しか見せてくれなかった人を忘れるのは大変よ」
あやめの睫毛が作りあげる影のあまりの濃さに、あやめの中にある何か言いようもない寂しさを見た気がした稲は、
「あやめ様には、そんな方がいるのですか?」
かつて孫六郎を預けられた時、「――本当は私、好きな人が別にいるのですよ」とあやめが、とっておきの秘密話を打ち明けるようにそう言ってきたことを思い出す。
「――まだ子供といえるような年の頃の話だけど・・・、亡き父の家臣だった人にね、恋をしたの」
その人は、とても優しくて、時折じっと私を見る目が甘くて。
もしかしたら、それは私のただの勘違いなのかもしれないけれど、それでも、あの視線を思い出すだけで今でも胸が痺れて――。
囚われているの。ずっとずっと――。
「その人は?」
くのいちの問いかけに、あやめは深い微笑を頬に刻む。
「死んだわ。父と同じ戦で――」
思い出はいつも綺麗。
綺麗なだけだから、もうどんなに想っても心を返してもらえなくて、だからこそ、あの人の心は私にあったのではないのかと答えの出ないことを考えてしまうの。
幼い恋なだけに無邪気に純粋で、そして、タチが悪くて。
「一生、囚われているのよ、この恋に。永遠の片思い」
「信幸さまは知っているの?」
ええ、とくのいちと稲を交互に見て、ふっ・・・と微笑を揺らした。
「あの人にとって、その方が気楽で良かったみたい。そもそも、私たちが結婚したのは真田家の結束の為であって、愛や恋は関係のないこと。そりゃあ――」
ちらりと稲を見やって、
「徳川の姫を娶るから側室に、と言われた時は腹もたちましたし、嫉妬もしました。それに、最初は子供が出来るまで遠ざかる、と言われましたから」
「――・・・」
「でも、稲さまにお会いしたら、そんな気持ちがすっかり消えましたの」
「えっ?」
「私の嫉妬は、恋心からきているものではないと確信したの。ねぇ、くのいち、大谷吉継様の姫は、とても素敵な人なのでしょう?」
「・・・」
「嫌な女だったら嫌いになれるのに、嫌いになれない。だからこそ、ふたりの近くにいるのが辛い」
今のくのいちを見ていると――、私のようになりそうで怖いの。
「――・・・」
「このまま離れていると、勘違いかもしれない綺麗な想いに囚われ続けるわよ」
それでいいの?
くのいちは、あやめをじっと見つめる。
見つめながら、近い将来の自分の心を抱きしめ続けているようなあやめを見ているのが辛くなったのか、正座していた足を崩して膝を抱えて、その膝の上に頬を乗せる。
そのまま、沈黙が続いたが、やがて唇を開くと、
「戻ろうかな・・・」
そう言ったかと思うと、勢いよく立ち上がると、その勢いのまま部屋の障子を開く。
勢い良く開かれたものだから音が響き、その音に仙千代が目を覚ますと、その頬をつんつんとつつくと、
「忘れちゃ嫌だよ」
そうにこりと言うと、たちまち庭に吹く風に混じって消えていく。
「す、素早いなぁ・・・」
稲は、いつもそう思っているが、ついついそんな呟きをいつも落としてしまう。
本当ね、とあやめはくすくす笑う。
残された稲の胸に湧き出たのは戸惑い。
やがて溢れるほどに膨れあがる想いは――。
どうなさったの、と慌てたようにあやめが、指の腹で稲の涙を拭う。
「――辛くないのですか?」
稲が問いかければ、あやめはひどく幸せな微笑を、その唇に浮かばせる。
「くのいちが気持ちを吹っ切る為にも、辛いことのように話したけれど、今はそうでもないの」
「なぜ?」
「そうねぇ・・・、なぜかしら。時間がたったらね、不思議と幸せな気持ちになったの。囚われていることが幸せになるの。だって、一生あの人を愛していられるのよ」
「――・・・」
「虚像を想い、おろかなことだと分かっているの」
「そんな・・・」
「本当は――・・・、稲様は嫁がれて、気持ちが楽になった部分もあるの。叔父上が私の存在をとても気遣ってくださるから出来ないのだけど、本当は――」
あの人への思い出に仕えるために、出家をしたい気持ちがあるの。
み仏には怒られてしまうでしょうけどね。
ふふふっ、とおどけた笑顔をあやめは稲に見せる。
「孫六郎のことは何も心配していないの。稲様が育てて下さるのならば、安心」
正室の座も実子も稲様に取られて、という考え方もあるけれど、どうしてかしら、嫉妬する気持ちも心配する気持ちも浮かばないの、と言う。
「それに――」
稲様がいらしてから、あの人、変わりましたよ。
「信幸さまが?」
「ええ」
「どんな風に?」
「あら、そんなことまでお教えするほど私は優しくないわ」
くすっとあやめは、頬をはずませた後、
「正室の座を追い出され、実子を奪われた女のささやかな仕返しです」
そんな言葉が、似合わないすがすがしい笑顔を滲ませる。
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雨の季節を終えたばかりで、生い茂る草木の色は深い。
徳川屋敷の一室。
「このコは、真田殿似かのう?」
家康が忠勝に同意を求めるように言う。家康の言う真田殿とは、昌幸のこと。
「真田の血筋が濃いのでしょうね」
忠勝が答える。
孫六郎の生母、あやめは昌幸の兄である真田信綱の娘。
家督を継いだ昌幸が、真田家の結束を固める為に信幸とあやめを結婚させた。そのふたりから生まれたことを思えば、真田家の純血ともいえる。
大人たちの視線など気にもならないのか、回りきらない舌でたどたどしいながら挨拶を終えた孫六郎は、家康の前にちょこんと座り込んで、貰った南蛮菓子を夢中で眺めている。
家康が、前から手を出し、ひとつつまむと、孫六郎の口にそっと入れる。
「・・・あまい!」
「そうだろう。こんぺい糖というものだ」
ふたりの瞳が、同時に緩んだ。
孫六郎もひとつつまむと家康の口に押し付ける。
家康は笑いながら、それを口に含んで、こりこりと音をたてて食べる。
孫六郎は、もうひとつ手に取り、食べるのかと思ったが、貰った包みに戻すと、
「仙千代にもあげるの!一緒に食べるの」
信幸に振り返る。
「仙千代はまだ食べられない」
「じゃあ、取っとく!」
「溶けてしまう」
うー・・・、と考え込む孫六郎に、家康が笑いながら、
「仙千代が食べられる年頃になったら、仙千代にでもあげよう」
と言えば、孫六郎はうんと大きく頷く。
家康が手を差し出せば、何のためらいもなくその膝に乗る。
ずっと楽しげに笑っていた家康を何をそんなに面白いのだろうと信幸が見ていると、ふと笑いを沈めた家康が、
「稲と同じことをして、同じことを言う」
「えっ?」
「幼い稲にこんぺい糖を与えた時も、弟に持って帰ると言っていた」
「そのようなことがあったのですか?」
忠勝も知らなかったらしい。
血は繋がっていなくとも近くにいれば性格は似るものなのだろう、と家康が言うので、忠勝は孫六郎をまじまじと見る。その視線に気付いたのか、小首を傾げて視線を返していた孫六郎だったが、家康の膝からぱっと立ち上がると、そのまま忠勝の膝に乗ってしまう。
「人懐こいな。稲も確かにこういう子供だった・・・」
突然のことに驚く忠勝だったが、ふと愛娘の子供の頃に思いをはせるようにまなじりを下げる。
「愚弟、幸村の幼い頃にも似てます」
「では、立派なもののふとなるだろう」
どこか幸村に似ている――つねづね信幸はそう思っていた。
血の繋がらない母に育てられるという境遇が似ているからなのだろうか?
「その弟より聞いたのですが、殿下のご調子が悪いようですか」
「落差が激しいようだ。それに夢見が悪いらしい――」
「夢見が?」
「信長様の夢を見るらしい。地獄に引きずり落とされる夢を見ると、そんなことを洩らした」
「――・・・」
信幸は、信長を見たことがない。
真田家は一時、織田家に下っていたものの、その姿を見ることはなかった。
話を聞いて、その人物像を想像するしかない。けれど、多くの人間に多大な影響を与えていることは分かっている。
秀吉も家康もそうだ。
信長に成り代わって、天下をとった秀吉。
大業を果たした秀吉だったが――。
「実は――弱い方なのかもしれませんね」
朝鮮への出兵も信長が語っていたことだと家康が言っていたことを信幸は思い出す。
以前は年老いて、感情の歯車がおかしくなり、そんなことを言い出したのかと思ったけれど、本当は信長への罪滅ぼしのつもりで、その夢を叶えようとしていたのではないだろうか。
「そうかもしれないな。」
家康が言う。
天下をとったものの、信長の亡霊から逃れないでいるのかもしれない。
天下を取るまでが、秀吉が秀吉らしくいられた最後なのではないか?
「もう――見たくない」
家康が零した呟きの意味を、信幸は受け止めかねる。
※
「綺麗な側面しか見せてくれなかった人を忘れるのは大変よ」
あやめのその言葉に、稲はくのいちと顔を合わせる。
沼田城にやってきたあやめは、膝で眠ってしまった仙千代を抱きながら、そんなことを言った。
あやめが沼田城に来るのは珍しいことではない。
あやめもくのいちの片思いは知っているらしく、珍しく幸村もいないのにくのいちがいることを驚きつつ、事情を察したらしい。
「幸村は――、いつかは相手を傷つけてしまうようなことが起きることのあれば、知らせなければいい。それが優しさと信じて、行動する人だと思うの」
「知らせれば―、相手をつらくさせてしまうような?」
「そう。幸村がくのいちに手をつけるのは簡単よ。珍しいことじゃないわ。でも、そうしなかったのは、自分がいつか家の為に他の女を娶らないといけないと分かっていたからだと思うの」
「でも、それでは――」
幸村も自分を想ってくれている――それが前提の話でしかない、とくのいちは唇を尖らせる。
「でも、くのいち。もしかしたら――と思ったことはあるのでしょう?」
「ただの自惚れです!」
そうかしら、あやめは、ふふふっと優しげに頬に笑みを浮かべる。
甘い期待がくのいちの胸の奥から、やわらかく上がってくることがあったのも事実。
幸村さまは――もしかして、私を想ってくれる気持ちがあるのではないか―と。
でも、その甘さを必死に否定していたのもくのいち自身。
信幸に向かって、
「結婚して子供を作る。それは女としての幸せだよ。でもね、女の幸せのカタチはそれだけじゃない。好きな人の幸せを守るために戦うのも女の幸せだよ――ううん、忍びの幸せかも」
そんなことを言ったことも本音。
それでも、甘い期待に胸を震わせることを止めることは出来なかった。
儚い恋心は、ゆらゆらと揺れ続ける。
「信じたくないのなら信じなくてもいいのよ。だって、私の勝手な想像だもの」
でもね、そんな勝手な優しさを残された相手は辛いだけ、そう言ってあやめは、瞼を閉じる。再びゆっくりと開かれた瞼の奥の瞳を翳らせると、
「綺麗な側面しか見せてくれなかった人を忘れるのは大変よ」
あやめの睫毛が作りあげる影のあまりの濃さに、あやめの中にある何か言いようもない寂しさを見た気がした稲は、
「あやめ様には、そんな方がいるのですか?」
かつて孫六郎を預けられた時、「――本当は私、好きな人が別にいるのですよ」とあやめが、とっておきの秘密話を打ち明けるようにそう言ってきたことを思い出す。
「――まだ子供といえるような年の頃の話だけど・・・、亡き父の家臣だった人にね、恋をしたの」
その人は、とても優しくて、時折じっと私を見る目が甘くて。
もしかしたら、それは私のただの勘違いなのかもしれないけれど、それでも、あの視線を思い出すだけで今でも胸が痺れて――。
囚われているの。ずっとずっと――。
「その人は?」
くのいちの問いかけに、あやめは深い微笑を頬に刻む。
「死んだわ。父と同じ戦で――」
思い出はいつも綺麗。
綺麗なだけだから、もうどんなに想っても心を返してもらえなくて、だからこそ、あの人の心は私にあったのではないのかと答えの出ないことを考えてしまうの。
幼い恋なだけに無邪気に純粋で、そして、タチが悪くて。
「一生、囚われているのよ、この恋に。永遠の片思い」
「信幸さまは知っているの?」
ええ、とくのいちと稲を交互に見て、ふっ・・・と微笑を揺らした。
「あの人にとって、その方が気楽で良かったみたい。そもそも、私たちが結婚したのは真田家の結束の為であって、愛や恋は関係のないこと。そりゃあ――」
ちらりと稲を見やって、
「徳川の姫を娶るから側室に、と言われた時は腹もたちましたし、嫉妬もしました。それに、最初は子供が出来るまで遠ざかる、と言われましたから」
「――・・・」
「でも、稲さまにお会いしたら、そんな気持ちがすっかり消えましたの」
「えっ?」
「私の嫉妬は、恋心からきているものではないと確信したの。ねぇ、くのいち、大谷吉継様の姫は、とても素敵な人なのでしょう?」
「・・・」
「嫌な女だったら嫌いになれるのに、嫌いになれない。だからこそ、ふたりの近くにいるのが辛い」
今のくのいちを見ていると――、私のようになりそうで怖いの。
「――・・・」
「このまま離れていると、勘違いかもしれない綺麗な想いに囚われ続けるわよ」
それでいいの?
くのいちは、あやめをじっと見つめる。
見つめながら、近い将来の自分の心を抱きしめ続けているようなあやめを見ているのが辛くなったのか、正座していた足を崩して膝を抱えて、その膝の上に頬を乗せる。
そのまま、沈黙が続いたが、やがて唇を開くと、
「戻ろうかな・・・」
そう言ったかと思うと、勢いよく立ち上がると、その勢いのまま部屋の障子を開く。
勢い良く開かれたものだから音が響き、その音に仙千代が目を覚ますと、その頬をつんつんとつつくと、
「忘れちゃ嫌だよ」
そうにこりと言うと、たちまち庭に吹く風に混じって消えていく。
「す、素早いなぁ・・・」
稲は、いつもそう思っているが、ついついそんな呟きをいつも落としてしまう。
本当ね、とあやめはくすくす笑う。
残された稲の胸に湧き出たのは戸惑い。
やがて溢れるほどに膨れあがる想いは――。
どうなさったの、と慌てたようにあやめが、指の腹で稲の涙を拭う。
「――辛くないのですか?」
稲が問いかければ、あやめはひどく幸せな微笑を、その唇に浮かばせる。
「くのいちが気持ちを吹っ切る為にも、辛いことのように話したけれど、今はそうでもないの」
「なぜ?」
「そうねぇ・・・、なぜかしら。時間がたったらね、不思議と幸せな気持ちになったの。囚われていることが幸せになるの。だって、一生あの人を愛していられるのよ」
「――・・・」
「虚像を想い、おろかなことだと分かっているの」
「そんな・・・」
「本当は――・・・、稲様は嫁がれて、気持ちが楽になった部分もあるの。叔父上が私の存在をとても気遣ってくださるから出来ないのだけど、本当は――」
あの人への思い出に仕えるために、出家をしたい気持ちがあるの。
み仏には怒られてしまうでしょうけどね。
ふふふっ、とおどけた笑顔をあやめは稲に見せる。
「孫六郎のことは何も心配していないの。稲様が育てて下さるのならば、安心」
正室の座も実子も稲様に取られて、という考え方もあるけれど、どうしてかしら、嫉妬する気持ちも心配する気持ちも浮かばないの、と言う。
「それに――」
稲様がいらしてから、あの人、変わりましたよ。
「信幸さまが?」
「ええ」
「どんな風に?」
「あら、そんなことまでお教えするほど私は優しくないわ」
くすっとあやめは、頬をはずませた後、
「正室の座を追い出され、実子を奪われた女のささやかな仕返しです」
そんな言葉が、似合わないすがすがしい笑顔を滲ませる。
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