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信幸の話にあやめは、くすくすっと頬を揺らして笑った。
その様子は軽やかで楽しげである。やがて、ゆっくりと笑いを静めると、
「可愛らしい方ではないですか」
獰猛な噂を聞きます本多忠勝殿の娘さんで自ら戦場に出るなどと聞いてましたのに、想像と違いますのねぇ、とあやめはしみじみ言ったかと思うと、
「でもね、信幸さま」
と、急に子供をたしなめる母親のような顔をする。
「新婚初夜のことを他の女に話したと聞いたら稲さまは、いい気がしませんよ」
あやめにそう言われ、信幸はだらしなく寝そべったまま、そういうものですか、と腹に力のこもっていない声で言う。
そうです、とあやめに強く言われ、薄く笑った。
「信幸さまは、そういうことには本当に鈍いんだから」
もう、と言いつつ頬に諦めを含んだ笑みを浮かべる。
あやめ自身、他の女の話など聞きたくない、と暗に言ったつもりだが、信幸に通じているのかいないのか。
あやめは信幸の父、昌幸の兄である真田信綱の娘だ。
その信綱が長篠の戦いで死去した為に昌幸が真田家の家督を継ぐことになった。
その際、あやめも昌幸に引き取られ、その後、昌幸の口利きで信幸に嫁いだ。
信幸よりも年上の従姉であり、幼馴染でもある。
幼き日、弟の幸村よりも武芸など劣り気味だった信幸も知っている。
だから、ついつい姉のような気持ちで接してしまうこともしばしば。
あぁ、そうだ、と言って信幸が、急に起き上がり、あやめを見る。
何でしょう、とあやめが視線で応えると、
「しばらくは、こちらには来ないから」
どれくらいになるかは分からない、とにこりとする。
その微笑みの中に信幸が何を伝えようとしているのかあやめは感じ取る。
おそらく、正室に子供が生まれるまでは遠ざかる、ということかとあやめは、ほんの一瞬視線を落としたがすぐに、視線を上げ、そうですか、と言うしかない。
信幸との間に一女をもうけたが、すぐに夭折してしまった。
正室より側室に先に子供を生まれることを信幸は案じているのだろう。
元々は私が正室だったのに、と恨みがましい気持ちがないわけではないが、後ろに徳川家の影がちらつく稲では仕方ない。
頭では分かっている。
でも、感情が追い付かない。
複雑気な気持ちを押し隠して、笑顔を作ろうとするが、うまく作れない。
ただ、溜息を落とすしかない。そんなあやめに、
「あやめなら分かってくれるだろ?」
といつになく優しく信幸が言う。
あぁ、なんて嫌な人とあやめは信幸を睨みつける。
憎たらしい。けれど、憎み切れない。
「時々、顔は見にくるから」
すっと立ち上がると、そのままあやめの脇を通り過ぎていく。
見送りをしないのが、あやめにとっての精いっぱいの抵抗。
※
ふいに信幸の足が止まる。
年若い少年ふたりが、庭でじゃれあうように竹刀を片手に稽古をしている。
家臣の誰の子供だったかな、と思いつつ、その光景を眺める。
幸村と一緒にああして稽古したのはもう何年前のことだろうか?
信幸に気付いたふたりが、慌てて稽古をやめたのを手で続けるように合図し、笑ってやると、ふたりはやや見られている緊張感からか、やや動きがぎこちないながら稽古を続ける。
信幸は、庭に降りると、彼らに名を問うと、稽古をみてやる。
それに少年らは、嬉しそうに歓声をあげた。
少年らの姿に昔の自分と幸村を重ねる。
何事も先に出来たのは幸村だった。
いつもそれに追いつここうともがいていたのが自分。
周囲もそれを咎めたり、叱責するようなことはなかった。
仕方がない。そう思ってくれていた。
それは――。
本当は幸村が兄だから。
幸村は、側室の子供として生まれた。
信幸は、正室の子供として生まれた。
幸村の母は、信幸の母の―山手殿―の侍女であったらしい。
昌幸の手がつき、幸村を妊娠し、そして、すぐに死去したのを山手殿が手元に引き取り、育てた。その後、すぐに信幸が生まれたのだ。
父は、ふたりとも正室の子供であり、信幸を長男とし、幸村を二男とした。
けれど、真実というものは小さな隙間を縫ってもはみ出てくるもの。
信幸も、幼くしてその事実を知り、母に尋ね、真実を教えられた。
おそらく、幸村も知っていることだろうが、幸村が母や父に問いただしたことはないらしい。
父は、実母を亡くした幸村を不憫に思ったのか可愛がった。
母は、自分と幸村を平等に可愛がってくれた―と思う。
子供たちには平等に接してくれと山手殿がひどく叱責し続けた故か、夫婦仲はこじれ、それは今なお続いている。
――真田家など継ぎたくない!
そう泣いたのはいつのことだったか。
あやめの父が戦死し、昌幸が家督を継ぐことになり、武田家に臣従する証として人質になることになった頃だと思う。
人質になるのが嫌だったのではない。
むしろ、両親の不仲を見ずに済むのでいいとさえ思った。
けれど、真田の家など欲しいとは思わなかった。
幸村の方が跡継ぎとしてふさわしい気がしていた。
だから、その気持ちを父にぶつけた。
父は、一瞬怒りを滲ませた目で信幸を睨みつけた。
負けじと父を睨んだ。
初めてだった。
正面から父と向き合ったのは、あの時が初めてだったと思う。
あの頃は、体の小さな子供だった。
いつの間に、父と幸村の背を追い越したのだろうか。
武田家が滅び、父の元に逃れた時にはすでにそうなっていたような気がする。
信幸は、無邪気に稽古を楽しむ兄弟の笑顔に、目を細める。
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