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夕霞が煙る。夕立の後の空は澄んだ桔梗色。
雨に濡れた宗茂が、縁に腰掛けて笑っている。家臣たちの案内で領地を馬で駆けていたが、夕立に降られたらしい。そんなことを手拭で簡単に雨を拭いながら、心配する侍女たちに話している。
少し離れたところで兵法の本を読んでいた誾千代の耳に嫌でも届く。
そして、夫となった男の視線を感じるが、誾千代は気付いていない振りを続ける。
けれど、それも短い間のこと。
「面白いか?」
宗茂の声が頭に振ってくる。
誾千代は無言で部屋に入ってきた宗茂を見上げる。自然と誾千代の眉間に皺が寄る。そんな妻の様子など気にもならないとばかりに、
「これは俺も読んだな」
誾千代が読んでいた書を、取り上げてしまう。見れば髪や肩が濡れている。
「濡れている。着替えてこい。風邪をひく」
「心配してくれるのか?」
「風邪をひかれたら迷惑なだけだ」
くすくすと楽しげに笑ったのは侍女たち。
素直になれない妻と、そんな妻の気を引きたい新婚の夫。
侍女たちの目には、そんな微笑ましい姿に映るらしい。
「仕方ない。着替えるか。手伝ってくれるか?」
誾千代が睨めば宗茂が楽し気に笑い出す。つられたように侍女たちも笑う。
宗茂の実家の高橋の家の両親はとても仲が良い。だから、きっと妻は夫の着替えを常に手伝っており、それをごく普通のことと宗茂は見ていたのだろう。
けれど、そんなことは自分には関係がない、と誾千代は思う。
睨みつけられた宗茂は、それでも楽しそうに目を揺らして、そのまま部屋を出て行く。その足音が聞こえなくなってから、誾千代は宗茂に取り上げられた書に手を伸ばす。
書の文字を目でなぞるが、頭に入らない。ただ目で文字の羅列を辿るだけ。
立ち上がって縁に佇む。
桔梗色の空に風が通り過ぎる音は、失った何かを求める亡霊たちの唸り声のようで、誾千代の心を落ち着かないものにする。
一箇所濡れているそこに宗茂が座っていたのだろう。
濡れてたまった水を誾千代は、軽く蹴る。足の先が冷たい。
けれど、心はもっと冷たい。
そして、そっと自分の掌を見つめる。
普通の女よりも固い手をしている。子供の頃から木刀を握り、武芸を磨いてきた。指の股が血塗れになり、痛みが痺れになり、次第に何も感じなくなり、無残に潰れ、出来上がった数え切れないまめの跡が出来上がっている。
こんな手で触れられて宗茂は何を思ったのだろう。
あの晩、宗茂に抱かれて。
宗茂の手が、唇が肌に触れ。
宗茂の肌に自らも触れ。
破瓜の痛みは木刀でたたきのめさせるのとは違う種類の痛み。
肉をえぐるような、体が裂かれるような、そんな痛みは真剣で斬られるのと同じなのだろうか?ことが終わっても続く鈍痛を感じつつ、ぼんやりとそんなことを考えていた誾千代に、
「俺が嫌いか?」
宗茂が問いかけてきた。
あぁ、嫌いだ。嫌いだとはっきり言った。
それを受けて、そうか嫌いか、宗茂が笑う。
嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。
はっきりと分かった。
どうして宗茂が嫌いなのか、はっきりと分かった。
私は――。
私は、この男になりたかったのだ。
それに気付いて泣くべきなのか怒るべきなのか、嘆くべきなのか笑うべきなのか、どのようにすればいいのか分からない。
男として生を受け、この男のような肉体を持ち、この男のようになりたかったのだ。
宗茂は、自分にないものをすべて持っている。
そう感じた苛立ちを思い出して、ただ、羨ましいだけなのかもしれないと、ふふっと誾千代は薄く笑う。
「前だけを見て生きていけ」
人妻となった娘に父が言った。
それから、誾千代が言葉を返すより早く父が言った言葉に、絶句した。
今まで誾千代が持っていてすべてが砂となってはらはらと崩れて落ちた。
誾千代の肩は見た目より薄い。
思い切り叩きのめせば、すぐさま折れてしまうのではないかと宗茂は思い、過去に木刀を合わせた時に、手加減もせずにやりあい、転ばさせ、怪我をさせたことするがあったことを思い出し、妻を抱きながら、怪我の跡が残っていないのかひそかに探したりもした。
その細い肩を抱きしめれば、疎ましいとばかりに腕を開いて誾千代は跳ね除けようとする。
宗茂も素直に妻を解放する。
闇に浮かび上がった妻の白い体が見えたのは一瞬のこと。すぐに寝着を羽織って肌を隠してしまう。
誾千代の宗茂に対する態度は、素っ気無い。
婿養子となった男に対するいろいろな感情もあるだろうが、それは誾千代の生まれ持った性質によるものだと宗茂は思っている。
「私はお前が嫌いだ」
誾千代が初夜にそう言った。
初夜にふさわしいとは言えないその言葉だが、宗茂には誾千代らしい言葉だと面白く感じた。
上半身を起こし寝着を羽織り、肌を隠した誾千代だが、首筋の白だけは消えずに宗茂の視界にある。
「誾千代」
と呼べば、視線を差し向ける。
その顔を見れば、化粧などほどこさずとも赤い唇が宗茂の目を奪う。体は許しても、くちづけを誾千代は許さない。
「刀を置け、と義父上に言われているそうだな」
「それがお前に何の関係がある」
「俺はお前の夫だが」
「そうだったな」
他人事のように抑揚のない声音。
手を伸ばして妻の肩を掴もうとしたが、するりと交わされる。
「俺は別にお前は、刀をおく必要はないと思っている」
宗茂の言葉に、かすかに誾千代の瞳が揺れた。
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雨に濡れた宗茂が、縁に腰掛けて笑っている。家臣たちの案内で領地を馬で駆けていたが、夕立に降られたらしい。そんなことを手拭で簡単に雨を拭いながら、心配する侍女たちに話している。
少し離れたところで兵法の本を読んでいた誾千代の耳に嫌でも届く。
そして、夫となった男の視線を感じるが、誾千代は気付いていない振りを続ける。
けれど、それも短い間のこと。
「面白いか?」
宗茂の声が頭に振ってくる。
誾千代は無言で部屋に入ってきた宗茂を見上げる。自然と誾千代の眉間に皺が寄る。そんな妻の様子など気にもならないとばかりに、
「これは俺も読んだな」
誾千代が読んでいた書を、取り上げてしまう。見れば髪や肩が濡れている。
「濡れている。着替えてこい。風邪をひく」
「心配してくれるのか?」
「風邪をひかれたら迷惑なだけだ」
くすくすと楽しげに笑ったのは侍女たち。
素直になれない妻と、そんな妻の気を引きたい新婚の夫。
侍女たちの目には、そんな微笑ましい姿に映るらしい。
「仕方ない。着替えるか。手伝ってくれるか?」
誾千代が睨めば宗茂が楽し気に笑い出す。つられたように侍女たちも笑う。
宗茂の実家の高橋の家の両親はとても仲が良い。だから、きっと妻は夫の着替えを常に手伝っており、それをごく普通のことと宗茂は見ていたのだろう。
けれど、そんなことは自分には関係がない、と誾千代は思う。
睨みつけられた宗茂は、それでも楽しそうに目を揺らして、そのまま部屋を出て行く。その足音が聞こえなくなってから、誾千代は宗茂に取り上げられた書に手を伸ばす。
書の文字を目でなぞるが、頭に入らない。ただ目で文字の羅列を辿るだけ。
立ち上がって縁に佇む。
桔梗色の空に風が通り過ぎる音は、失った何かを求める亡霊たちの唸り声のようで、誾千代の心を落ち着かないものにする。
一箇所濡れているそこに宗茂が座っていたのだろう。
濡れてたまった水を誾千代は、軽く蹴る。足の先が冷たい。
けれど、心はもっと冷たい。
そして、そっと自分の掌を見つめる。
普通の女よりも固い手をしている。子供の頃から木刀を握り、武芸を磨いてきた。指の股が血塗れになり、痛みが痺れになり、次第に何も感じなくなり、無残に潰れ、出来上がった数え切れないまめの跡が出来上がっている。
こんな手で触れられて宗茂は何を思ったのだろう。
あの晩、宗茂に抱かれて。
宗茂の手が、唇が肌に触れ。
宗茂の肌に自らも触れ。
破瓜の痛みは木刀でたたきのめさせるのとは違う種類の痛み。
肉をえぐるような、体が裂かれるような、そんな痛みは真剣で斬られるのと同じなのだろうか?ことが終わっても続く鈍痛を感じつつ、ぼんやりとそんなことを考えていた誾千代に、
「俺が嫌いか?」
宗茂が問いかけてきた。
あぁ、嫌いだ。嫌いだとはっきり言った。
それを受けて、そうか嫌いか、宗茂が笑う。
嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。
はっきりと分かった。
どうして宗茂が嫌いなのか、はっきりと分かった。
私は――。
私は、この男になりたかったのだ。
それに気付いて泣くべきなのか怒るべきなのか、嘆くべきなのか笑うべきなのか、どのようにすればいいのか分からない。
男として生を受け、この男のような肉体を持ち、この男のようになりたかったのだ。
宗茂は、自分にないものをすべて持っている。
そう感じた苛立ちを思い出して、ただ、羨ましいだけなのかもしれないと、ふふっと誾千代は薄く笑う。
「前だけを見て生きていけ」
人妻となった娘に父が言った。
それから、誾千代が言葉を返すより早く父が言った言葉に、絶句した。
今まで誾千代が持っていてすべてが砂となってはらはらと崩れて落ちた。
誾千代の肩は見た目より薄い。
思い切り叩きのめせば、すぐさま折れてしまうのではないかと宗茂は思い、過去に木刀を合わせた時に、手加減もせずにやりあい、転ばさせ、怪我をさせたことするがあったことを思い出し、妻を抱きながら、怪我の跡が残っていないのかひそかに探したりもした。
その細い肩を抱きしめれば、疎ましいとばかりに腕を開いて誾千代は跳ね除けようとする。
宗茂も素直に妻を解放する。
闇に浮かび上がった妻の白い体が見えたのは一瞬のこと。すぐに寝着を羽織って肌を隠してしまう。
誾千代の宗茂に対する態度は、素っ気無い。
婿養子となった男に対するいろいろな感情もあるだろうが、それは誾千代の生まれ持った性質によるものだと宗茂は思っている。
「私はお前が嫌いだ」
誾千代が初夜にそう言った。
初夜にふさわしいとは言えないその言葉だが、宗茂には誾千代らしい言葉だと面白く感じた。
上半身を起こし寝着を羽織り、肌を隠した誾千代だが、首筋の白だけは消えずに宗茂の視界にある。
「誾千代」
と呼べば、視線を差し向ける。
その顔を見れば、化粧などほどこさずとも赤い唇が宗茂の目を奪う。体は許しても、くちづけを誾千代は許さない。
「刀を置け、と義父上に言われているそうだな」
「それがお前に何の関係がある」
「俺はお前の夫だが」
「そうだったな」
他人事のように抑揚のない声音。
手を伸ばして妻の肩を掴もうとしたが、するりと交わされる。
「俺は別にお前は、刀をおく必要はないと思っている」
宗茂の言葉に、かすかに誾千代の瞳が揺れた。
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