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この目を見るのは二度目だな――秀忠は思った。
一度目は上田攻めの頃。
本戦に遅参となったあの屈辱の上田攻め。
秀忠を射抜くように真っ直ぐな信幸の眼光を、以前は恐ろしく思えたが今は哀れみすら感じる。顔色も青白く、ひどく体調が悪そうだ。
信之は、手放しては何をするか分からない男だ。
身内に組み入れておかねばならない。
そう言った父―家康の言葉を思い出す。
信之は、弟の赦免を秀忠に申し出た。
弟、幸村が大坂方につけば徳川にとって大打撃となる、そう説いてきた。
秀忠は脇息から身を起こして、同席している立花宗茂を見る。
その視線を受けて、
「真田殿の申す通りかと思います。大坂方が牢人集を集めている今、幸村殿ほどの武将に声をかけないとは思えない。そして、幸村殿が大坂につけば、それに従う者も出てくるでしょう」
にこやかに宗茂は言う。
ふむ、と小さく頷くが秀忠は、その後は黙ってしまう。
部屋に静寂が広がる。
その時間が長くなるほど漂う静寂の密度は濃くなる。
やがて――。
「しばらく考えさせてくれ」
秀忠は扇をすっ・・・と横に逸らし、信之に退出を促す。
長袴をシュルリを静かに音をたてて信之が退出し、その足音が回廊から消えた頃。
「仮に――」
秀忠が唇を開く。
「ここで許さなかったら――信之も大坂方につくと思うか?」
不意打ちの問いかけに宗茂は、一瞬戸惑ったように瞳を揺らす。
その宗茂の戸惑いと面白気に受け止め秀忠は、
「ない、と即答はできぬか」
「そうではございません!あまりにありえないことと思えたので、驚いたまでです」
「ありえない・・・ことか」
秀忠は、ふと鼻先で笑う。
「確かにそうかもしれない。けれど――」
「そんなに心配なのでしたら、早く赦免してお心を軽くすべきかと思います」
「簡単に言ってくれるな」
ははっと秀忠は力なく笑う。
傍に仕えるようになって秀忠の性格を、宗茂はよく知っているつもりだ。
一度決めたことを撤回することが出来ない頑固さが、この状況下になってもしこりとなって邪魔しているらしい。
最初はほんの少しだけ感じた違和感。
それがやがてじわじわと全身に広がっていき、信之は倦怠感に襲われる。
秀忠に謁見を願い出たまでが、体力の限界だったのかもしれない。
高熱が一晩出たかと思えば、翌朝にはすっ・・・と引いていき、何だったのだろうと思えばまた夜には高熱。
やはりこの度の戦は参陣できないか――と思ったが、それでいいとも思った。
息子ふたりと、また、赦免がかなった幸村が参陣できたら真田家はそれでいい。
幸村が後見してくれれば息子たちは安心だろうし、幸村はきっと功績をあげる。
息子たちは破綻なくやり過ごしてくれればいい。
功績を挙げれば幸村は、恩賞を受けることになるだろうし、可能ならば上田領を幸村に引き継がせたいと信之は考えている。
けれど、拭い切れない不安――病を得て弱くなっているのか?
信之さま――と声をかけられ、ふと顔を上げ、稲と妻の名を呼ぶ。
「起きていて平気なのですか?」
「昼間はだいぶ楽なのですよ」
信之の床の脇に座った稲は、子供のするように信之の額に手を当てる。
思わず信之の唇に苦笑が浮かぶ。
「ふたりが出陣の挨拶に来たいそうですよ」
信之は額に当てられた稲の手をそっと取り、
「破綻なくやり過ごせ、とだけ伝えて下さい。それで通じます」
「お会いにならないのですか?」
「――では、どちらかひとりは忠節の為に死んでくれ」
「ひどいお父上ですこと」
稲は、一瞬まなじりを吊り上げてみせたものの、本音ではないことは十分に分かっているので、すぐに微笑みへと変えてくすくすと笑う。
父上は、と聞いてきたのは次男の信政。
出陣の準備で家臣たちが慌ただしく動き回っている喧騒は別の世界のことのように、息子ふたりはいつもと変わらない。
初陣だというのに緊張感を感じさせない。
こういうところはふたりとも信之似なのだろうかと稲は思う。
「破綻なくやり過ごせ、どちらかひとりは忠節の為に死んでくれだそうです」
にこりと稲が言えば、ひどいなぁと笑ったのは信吉。
兄につられるように信政も軽く笑ってから、
「兄上の弾除けぐらいにはなりますよ」
「なんでお前に守ってもらわなかきゃいけないんだよ。足だけは引っ張るな。図体ばかりでかくなりやがって」
「兄上を抜かすのも時間の問題ですね」
ふふん、と勝ち誇ったかのように言う信政に信吉が口を開くより早く、止めなさい、と稲は溜息交じりに言い、ふたりを交互に見つめる。顔を合わせれば口喧嘩をするふたりだが、それを楽しんでいるらしい様子に仲が良いのか悪いのか。
幸村が信之について回っていたことを思い出して、きしりと胸が痛む。
子犬が猫にじゃれついて、嫌がられているみたいと思った信之と幸村だが、自分の息子ふたりも同じだ。
「貴方たちは戦を知らない世代ですから仕方ありませんが、見聞きするのと現実は違いますよ」
稲は、ふたりを諭す。
「東の無双と言われた我が父、本多忠勝は生きて、殿を守り、仲間を守り、民を守り、その中のみ誇りは守れると教えてくれました。その為には傷つくことも許されないと――」
そこまで言って稲は、ハッとする。
あの時、めぐり合った若武者は――幸村。どうして今まで気付かなかったのだろう。
幸村も覚えていない様子だったが・・・。
いや、違う。幸村は覚えていて、だからこそ、信之との結婚当初、義姉が戦場に出ることに嫌な顔をしてみせたのかもしれない。
「母上?」
信政の声に稲は我に返る。何でもありませんよ、と頬に笑みを浮かべる。
「ですから、真田家の誇りを守る為にも、ふたりとも生きて帰ってくるのですよ」
「父上と言ってることが違う」
挙げ足を取るように信政が言うので、稲は軽く睨む。
わざとらしく怯えた振りをする信政の脇腹を信吉がつねり、また口論が始まろうとしたので、稲は大きな溜息を落とす。
大丈夫だろうか。稲の中には、心配しかない。
昌幸時代からの戦上手な信頼できる家臣たちを補佐につけているけれど。
そして、やばいという顔をした息子ふたりについ、
「私もついて行こうかしら」
ぽろり零せば、ふたりともあからさまに嫌な顔をする。
大坂に行きたい。連れて行ってくれ。
そう言ったのは大助。くのいちの腕をしっかり握って離さない。
幸村によく似たその瞳は真摯で、くのいちの胸がどくどくと高まるが、勢いよく大助から目を反らす。
そっと大助の手を離そうとして驚く。
ふらっとくのいちがよろけた。大助が自分の手をしっかり握っているかと思った。
けれど、違った。
大助がくのいちを支えられていたらしい。
まだ自分より小さな手の少年だと思っていたのに、その手はずいぶんと大きくなっていた。
出来ません、とくのいちが言う。
くのいちの脳裏に浮かぶのは、幸村、信之のふたり。
戸石城で槍を交えた二人の姿。
あの時同じように胸が締め付けられるような息苦しさに、新鮮な空気を求めて、息を吸ってゆっくりと吐き出す。
「父上はこんな所で終わるべき人じゃないと言ったのは、くのいちだろう!」
なぜ口に出してしまったのか、くのいちは舌打ちしたい気分になる。
わずかにも瞳を動かすこともなく、真っ直ぐにくのいちを見てくる大助の手を今度こそ勢いよく振り払う。
瞬間、大助の瞳に悲哀が浮かぶ。すがるような哀しそうな目に胸が痛む。
「――幸村さまの許可がなければ出来ませんよ」
「俺が行けば――」
俺が行けば父上が後を追う。そうしたら、再び父上は武将として返り咲く。
大助の言葉にくのいちは、思わず絶句する。
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一度目は上田攻めの頃。
本戦に遅参となったあの屈辱の上田攻め。
秀忠を射抜くように真っ直ぐな信幸の眼光を、以前は恐ろしく思えたが今は哀れみすら感じる。顔色も青白く、ひどく体調が悪そうだ。
信之は、手放しては何をするか分からない男だ。
身内に組み入れておかねばならない。
そう言った父―家康の言葉を思い出す。
信之は、弟の赦免を秀忠に申し出た。
弟、幸村が大坂方につけば徳川にとって大打撃となる、そう説いてきた。
秀忠は脇息から身を起こして、同席している立花宗茂を見る。
その視線を受けて、
「真田殿の申す通りかと思います。大坂方が牢人集を集めている今、幸村殿ほどの武将に声をかけないとは思えない。そして、幸村殿が大坂につけば、それに従う者も出てくるでしょう」
にこやかに宗茂は言う。
ふむ、と小さく頷くが秀忠は、その後は黙ってしまう。
部屋に静寂が広がる。
その時間が長くなるほど漂う静寂の密度は濃くなる。
やがて――。
「しばらく考えさせてくれ」
秀忠は扇をすっ・・・と横に逸らし、信之に退出を促す。
長袴をシュルリを静かに音をたてて信之が退出し、その足音が回廊から消えた頃。
「仮に――」
秀忠が唇を開く。
「ここで許さなかったら――信之も大坂方につくと思うか?」
不意打ちの問いかけに宗茂は、一瞬戸惑ったように瞳を揺らす。
その宗茂の戸惑いと面白気に受け止め秀忠は、
「ない、と即答はできぬか」
「そうではございません!あまりにありえないことと思えたので、驚いたまでです」
「ありえない・・・ことか」
秀忠は、ふと鼻先で笑う。
「確かにそうかもしれない。けれど――」
「そんなに心配なのでしたら、早く赦免してお心を軽くすべきかと思います」
「簡単に言ってくれるな」
ははっと秀忠は力なく笑う。
傍に仕えるようになって秀忠の性格を、宗茂はよく知っているつもりだ。
一度決めたことを撤回することが出来ない頑固さが、この状況下になってもしこりとなって邪魔しているらしい。
最初はほんの少しだけ感じた違和感。
それがやがてじわじわと全身に広がっていき、信之は倦怠感に襲われる。
秀忠に謁見を願い出たまでが、体力の限界だったのかもしれない。
高熱が一晩出たかと思えば、翌朝にはすっ・・・と引いていき、何だったのだろうと思えばまた夜には高熱。
やはりこの度の戦は参陣できないか――と思ったが、それでいいとも思った。
息子ふたりと、また、赦免がかなった幸村が参陣できたら真田家はそれでいい。
幸村が後見してくれれば息子たちは安心だろうし、幸村はきっと功績をあげる。
息子たちは破綻なくやり過ごしてくれればいい。
功績を挙げれば幸村は、恩賞を受けることになるだろうし、可能ならば上田領を幸村に引き継がせたいと信之は考えている。
けれど、拭い切れない不安――病を得て弱くなっているのか?
信之さま――と声をかけられ、ふと顔を上げ、稲と妻の名を呼ぶ。
「起きていて平気なのですか?」
「昼間はだいぶ楽なのですよ」
信之の床の脇に座った稲は、子供のするように信之の額に手を当てる。
思わず信之の唇に苦笑が浮かぶ。
「ふたりが出陣の挨拶に来たいそうですよ」
信之は額に当てられた稲の手をそっと取り、
「破綻なくやり過ごせ、とだけ伝えて下さい。それで通じます」
「お会いにならないのですか?」
「――では、どちらかひとりは忠節の為に死んでくれ」
「ひどいお父上ですこと」
稲は、一瞬まなじりを吊り上げてみせたものの、本音ではないことは十分に分かっているので、すぐに微笑みへと変えてくすくすと笑う。
父上は、と聞いてきたのは次男の信政。
出陣の準備で家臣たちが慌ただしく動き回っている喧騒は別の世界のことのように、息子ふたりはいつもと変わらない。
初陣だというのに緊張感を感じさせない。
こういうところはふたりとも信之似なのだろうかと稲は思う。
「破綻なくやり過ごせ、どちらかひとりは忠節の為に死んでくれだそうです」
にこりと稲が言えば、ひどいなぁと笑ったのは信吉。
兄につられるように信政も軽く笑ってから、
「兄上の弾除けぐらいにはなりますよ」
「なんでお前に守ってもらわなかきゃいけないんだよ。足だけは引っ張るな。図体ばかりでかくなりやがって」
「兄上を抜かすのも時間の問題ですね」
ふふん、と勝ち誇ったかのように言う信政に信吉が口を開くより早く、止めなさい、と稲は溜息交じりに言い、ふたりを交互に見つめる。顔を合わせれば口喧嘩をするふたりだが、それを楽しんでいるらしい様子に仲が良いのか悪いのか。
幸村が信之について回っていたことを思い出して、きしりと胸が痛む。
子犬が猫にじゃれついて、嫌がられているみたいと思った信之と幸村だが、自分の息子ふたりも同じだ。
「貴方たちは戦を知らない世代ですから仕方ありませんが、見聞きするのと現実は違いますよ」
稲は、ふたりを諭す。
「東の無双と言われた我が父、本多忠勝は生きて、殿を守り、仲間を守り、民を守り、その中のみ誇りは守れると教えてくれました。その為には傷つくことも許されないと――」
そこまで言って稲は、ハッとする。
あの時、めぐり合った若武者は――幸村。どうして今まで気付かなかったのだろう。
幸村も覚えていない様子だったが・・・。
いや、違う。幸村は覚えていて、だからこそ、信之との結婚当初、義姉が戦場に出ることに嫌な顔をしてみせたのかもしれない。
「母上?」
信政の声に稲は我に返る。何でもありませんよ、と頬に笑みを浮かべる。
「ですから、真田家の誇りを守る為にも、ふたりとも生きて帰ってくるのですよ」
「父上と言ってることが違う」
挙げ足を取るように信政が言うので、稲は軽く睨む。
わざとらしく怯えた振りをする信政の脇腹を信吉がつねり、また口論が始まろうとしたので、稲は大きな溜息を落とす。
大丈夫だろうか。稲の中には、心配しかない。
昌幸時代からの戦上手な信頼できる家臣たちを補佐につけているけれど。
そして、やばいという顔をした息子ふたりについ、
「私もついて行こうかしら」
ぽろり零せば、ふたりともあからさまに嫌な顔をする。
大坂に行きたい。連れて行ってくれ。
そう言ったのは大助。くのいちの腕をしっかり握って離さない。
幸村によく似たその瞳は真摯で、くのいちの胸がどくどくと高まるが、勢いよく大助から目を反らす。
そっと大助の手を離そうとして驚く。
ふらっとくのいちがよろけた。大助が自分の手をしっかり握っているかと思った。
けれど、違った。
大助がくのいちを支えられていたらしい。
まだ自分より小さな手の少年だと思っていたのに、その手はずいぶんと大きくなっていた。
出来ません、とくのいちが言う。
くのいちの脳裏に浮かぶのは、幸村、信之のふたり。
戸石城で槍を交えた二人の姿。
あの時同じように胸が締め付けられるような息苦しさに、新鮮な空気を求めて、息を吸ってゆっくりと吐き出す。
「父上はこんな所で終わるべき人じゃないと言ったのは、くのいちだろう!」
なぜ口に出してしまったのか、くのいちは舌打ちしたい気分になる。
わずかにも瞳を動かすこともなく、真っ直ぐにくのいちを見てくる大助の手を今度こそ勢いよく振り払う。
瞬間、大助の瞳に悲哀が浮かぶ。すがるような哀しそうな目に胸が痛む。
「――幸村さまの許可がなければ出来ませんよ」
「俺が行けば――」
俺が行けば父上が後を追う。そうしたら、再び父上は武将として返り咲く。
大助の言葉にくのいちは、思わず絶句する。
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