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2024/11
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稲の夫の信幸は無口だ。
けれど、その控えめな瞼の下から、稲を見る瞳はとても優しい。
稲の話に耳を傾け、静かに受け止めてくれる。
読書や書き物をしている信幸の背に、稲は子供のようにそっと抱きつくのが好きだ。
または、その背に自分の背を重ね、夫の肩に頭を預けたりもする。
それをいつも嫌がることもなく信幸は受け止めてくれる。

今日もそうしていた。
書き物をしていた信幸の背に自分の体を預け、沈黙の中、信幸の体温を感じながら穏やかな時間を過ごしていた。

「ねぇ、信幸さま」

稲の問いかけに信幸は答えない。
けれど、ほんの少しだけ背を伸ばして、聞いていると合図をくれる。

「信幸さまは、失言をするようなことなどないのでしょうね」
「――急に何です?」

すっ・・・と信幸が体をずらしたので、もたれかかっていた稲が倒れそうになったのを、信幸が支えて、そっと抱きとめてくれる。

「いえ、なんとなく」
「何かあったのですか?」
「いいえ。ただ、私は思ったことをすぐに口に出してしまうので、信幸さまにはそんなことはないのだろうなと思っただけです」
「――そんなことないですよ」

信幸がそう言うのを稲は、顔を上げると不満気に軽く睨むように夫を見る。
そんな稲を信幸はおかしそうに頬を揺らして、軽く稲の頬をつねる。

「――私は、ただ口数が少ないだけで、失言ぐらいします」
「したことあるのですか?」
「――ありますよ」
「いつ?」
「そうですね・・・」

ほんの少し考えた後、

「――まだ真田家が武田家の配下だった頃の織田信長の甲斐侵略の折」
「だいぶ昔のことですね」
「ええ。雁ヶ沢を知ってますか?」
「とても高い谷ですね」
「ええ。その谷を前に――」

はぁ、と信幸が珍しくため息を落とす。そんな夫に稲は小首をかしげる。

「幸村とふたりで、互いに飛び降りてみろとかふざけた後、ついついここから飛び降りることができる者はいるか、と配下の者に戯れに言ってみたのです」
「――・・・まぁ」

まだ年若いふたりの兄弟のじゃれ合いが想像でき、稲は頬を揺らす。

「そんな人いるはずないではないですか」
「――・・・」
「――い・・・たのですか?」

驚く稲に、今考えるとタチの冗談を悪いことを言ってしまったものです、と信幸は言う。

「赤沢嘉兵衛という者が、飛び降りたんです」
「――・・・その人は・・・」
「死んだと思うでしょうが、どういうわけか生きていたのですよ」
「すごいですね」
「すごいというか、嘉兵衛が戻ってきた時は幽霊かと思いました。でも、生きていたから本当に良かったのですが、幸村と一緒に父にこっぴどく叱られました」

不用意なことは言うべきではないと実感しましたよ。
ため息混じりに言う信幸が珍しく、ついまじまじと稲は夫を見てしまう。
稲の視線に信之は、再び妻の頬をつねる。

「――ったぁ」

痛がる稲をふっと笑うと再び背を向けて、書き物の続きを始める。
稲はそんな夫の背に抱きつき、ぎゅっと腹部に腕を回す。

「苦しいですよ」

稲は答えない。
もっと力を込めて夫に抱きつく。
すると、ククッと夫が笑ったのが分かった。
かすかに揺れる夫の背に頬を押し付け、稲はそっと瞼を閉じる。


【おまけ】

「――兄上の失言ですか?」

たまたま訪ねて来た義弟―幸村を捕まえて稲は問いかけた。

「兄上は、失言というより・・・」
「何ですか?」
「戦の時は口悪いですよ」
「――えっ・・・?」
「普段からは考えられないぐらい口が悪いですよ」
「――・・・・。」
「いつも無口で穏やかなだけにあれは・・・、結構きつい」
「・・・。」
「でも、時に疲れた兵をなごませるのに冗談を言ったりして笑わせてくれたりもしたり・・・、まぁ、いい意味で戦の時はよく分からない人です」
「――・・・」


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真田兄弟のこのエピソードが好きです。
年相応の馬鹿兄弟っぽくて。
信幸さんは結構、戦の時は冗談を言う人だったそうです。





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