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潮のように体内の血液が引いていくような感覚に稲は襲われた。
体がゆらりと傾きかけた、その時。
「しっかりなさい!」
肩が引かれた。引いた方をしっかりと受け止め、支えたのは、あやめ。
しっかりと稲の両肩に指を食い込ませてくる。
「――まさか・・・」
真田の家が、ふたつに別れることになろうとは――。
昨今の情勢のことは稲とて知っていた。
けれど、何も口に出すことはしない。信幸に従うだけだと思っていた。
信幸が三成につくならば、自分も―父と養父を裏切ろうとも―そんな覚悟をしていた。
けれど――。
稲の目には真田家は仲の良い一族に見えていた。
いや、実際仲が良い。
その真田が二分するとは想像もしていなかった。
なのに、このような結果を導きだしてしまったのは。
自分が徳川の娘だから――?
さもすれば、幸村の妻は、三成とともに挙兵した大谷吉継の娘だから。
ふたりの息子の婚家の関係で?
今、信幸はどんな心境で――。
考えだただけで胸がキリキリと締め付けられるように痛む。
私が守るべきものは、信幸さまが守りたいと思うものですから、と信幸に告げた。
「信幸さま・・・」
ぽつり呟く。
貴方が選ばれた道は、本当に心の底から貴方が守りたいものですか?
呆然としている稲に、ことのなりゆきを伝えにきた出浦は静かな声で、
「奥方さま、殿が言うには、大殿と幸村さまは必ずこちらに来るだろうということでした」
「えっ?」
瞬間、稲は我に返る。
「絶対に城に入れてはいけないということです。この沼田城を乗っ取るだけだとおっしゃってました。ですから、追い返すようにとのご命令です。必要ならばその命をとってでも城内には入れるなと」
「――それが信幸さまのご命令ですか?」
そんな・・・、と言う声と体が震えた。
そんな稲を頼りないと思ったのか、出浦が眉根をひそませたその時。
今まで背を支えてくれていたあやめの体温がひいた。
――パンッ。
小気味のよい音が、部屋中の空気を裂いて響いた。
何が起こったのか、稲にも出浦にも一瞬分からなかった。
気付けば、稲は遠い棚近くまで体が飛ばされ、崩れ折れていた。
出浦には、稲の長い髪がその顔を覆っているので、だから、彼女の顔が見えない。
が、やがてその肩がそっと動き、右手がその頬を戸惑いながら包んでいく。
鳴り響いたのは、稲の頬がぶたれた音。
稲は、そのまま信じられないものを見るように、あやめを見上げた。
「貴方が今、しっかりしないでどうするのですか?!貴方は本当に、本多忠勝殿の娘ですか?!戦場で名をはせた稲姫ですか?!そんな女に孫六郎は預けられません!返しなさい!そう、仙千代も一緒に私に手渡しなさい!」
言われて、稲の瞳をみるみる覆いつくしてゆくのは――。
それを見たあやめは満足そうに微笑むと、
「この沼田は稲様がしっかりと守ってくださいます。だから、ご安心くださいと信幸さまにお伝えください」
出浦に言う。苦笑いしたまま出浦は去っていく。
出浦が去った後、崩れ折れたままの稲に近づいたあやめは、ふわりといつもの姉のような温かくふんわりとした瞳を向けて微笑む。
「痛かった?」
頬に包む稲の手をあやめのそれが包む。稲は小さく頷くが、でも、と言う。
「でも、もっと痛いには信幸さまのお心」
「そうね」
だから、私たちがするべきことは――?
言われて稲はすっと立ち上がる。
蘇ってくる過去の戦場での記憶。鍛錬は怠っていない。
大丈夫。ぐっと下唇を噛み締め、前を真っ直ぐに見据えると、家臣たちに指示を出しに部屋を出る。
そして、忍城の時に感じたことを思い出す。
くのいちと甲斐姫の涙を見たあの時のこと。
戦は今まで親しくしていた者の関係を壊すことだってある。
それが今度は真田家に起きた。
心の底の悲しみを押し隠して、己の守るべきものを守るために戦う――。
あのふたりの涙を見て気付いた思い。
女が戦場に立つのは、守りたいものがあるから。
夫と子供たち、そして、家臣たちのひとりひとりを脳裏に思い返して、心新たにキッと顔を上げた。
――私が守るのは、信幸さまの選んだ道。
――どこかで信幸を見下していた。
父の言葉が幸村の胸から消えない。
沼田に向かい、馬を走らせながらそのことばかり考えていた。
子供の頃。
不器用で出来ないことが多かった兄。
それを克服しようと頑張り、無理をして体を壊す悪循環を繰り返していた兄。
それも仮病だったのかもしれないと父は言ったが、幸村にはそうは思えなかった。
当時は本当に病弱だった為、周囲が自分に持った病弱だという印象を、今はうまく利用しているのだろう。
確かに父の言うよりに兄を支え、守らなければいけないと思っていた。
兄を、というより本当は弟を――兄として守りたかったのかもしれない。
体が小さく、病弱だった信幸。自分がしっかり守らないといけないと思っていた。
そして、その思いが――。
信幸を見下している――ということなのだろうか?
子供の頃は、なぜこんなことが出来ないのか、不思議に思いながら信幸を見ていたのも真実。
でも、努力をする姿を本当に尊敬していた。
兄を見下している――違う、と幸村は胸の中で首を振る。
なのに今、幸村の心に迷いが生じてしまっている。実は自分の心の中、深いところで見下す気持ちがあったのか?実は持っていたのではないか?
が、幸村はそれを認めたくない。認められない。
信幸が好きだ。本当なら袂を分かつことなくそばにいたい。いままで通り。
沼田城を乗っ取れば、今まで通りになる。
わしもおめおめと信幸を家康にくれてやるつもりはない。
父がそう言った言葉は、幸村とて一緒だ。
頬に苦笑を浮かべて、仕方ないなと言って受け入れてくれる信幸の顔が想像できる。
その為にも――。
馬を休めせる為に休憩をした時。
もうそろそろ沼田に入ろうとしている頃だった。
「嫁が作った陣羽織は持っているか?」
昌幸が突然そんなことを言ったので、幸村は頷いた。
小田原の役の際、稲が作ったという陣羽織を、忍城の時に信幸が突然稲を連れてきた時に、受け取ったもの。
あの頃、これが泰平の世を迎えるための最後の戦だと思っていた。
なのに、再び起きた騒乱。
確かに父の言う通り、信幸を手に入れ、父と兄で前の上田合戦の折のように徳川勢を翻弄し、自分が三成たちとの兵に合流できたら勝機はある。
ちょこまかと少人数部隊でも多勢を翻弄する戦法は信幸が得意だ。
今までもそうだった。
敵を信幸が翻弄し、混乱したところを昌幸と幸村で討ち取る。
「嫁は情に脆い部分がある。用心の為に羽織っておけ」
幸村は頷く。
しばらく、ぼんやりとしていたが、幸村さまと呼ばれて顔を上げる。
見上げればそこにいたのは不安そうなくのいち。
「信幸さま、振り向いてくれなかったよ」
「そうか」
去っていく信幸を呼んだが、振り返ってもらえなかったということだろう。
くのいちにも信幸は優しかった。
だから、振り向いて貰えなかったことだけでも悲しいらしい。
「悲しいな」
「私より悲しいのは、幸村さまでしょ?」
幸村は、力なく笑うことしか出来なかった。
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体がゆらりと傾きかけた、その時。
「しっかりなさい!」
肩が引かれた。引いた方をしっかりと受け止め、支えたのは、あやめ。
しっかりと稲の両肩に指を食い込ませてくる。
「――まさか・・・」
真田の家が、ふたつに別れることになろうとは――。
昨今の情勢のことは稲とて知っていた。
けれど、何も口に出すことはしない。信幸に従うだけだと思っていた。
信幸が三成につくならば、自分も―父と養父を裏切ろうとも―そんな覚悟をしていた。
けれど――。
稲の目には真田家は仲の良い一族に見えていた。
いや、実際仲が良い。
その真田が二分するとは想像もしていなかった。
なのに、このような結果を導きだしてしまったのは。
自分が徳川の娘だから――?
さもすれば、幸村の妻は、三成とともに挙兵した大谷吉継の娘だから。
ふたりの息子の婚家の関係で?
今、信幸はどんな心境で――。
考えだただけで胸がキリキリと締め付けられるように痛む。
私が守るべきものは、信幸さまが守りたいと思うものですから、と信幸に告げた。
「信幸さま・・・」
ぽつり呟く。
貴方が選ばれた道は、本当に心の底から貴方が守りたいものですか?
呆然としている稲に、ことのなりゆきを伝えにきた出浦は静かな声で、
「奥方さま、殿が言うには、大殿と幸村さまは必ずこちらに来るだろうということでした」
「えっ?」
瞬間、稲は我に返る。
「絶対に城に入れてはいけないということです。この沼田城を乗っ取るだけだとおっしゃってました。ですから、追い返すようにとのご命令です。必要ならばその命をとってでも城内には入れるなと」
「――それが信幸さまのご命令ですか?」
そんな・・・、と言う声と体が震えた。
そんな稲を頼りないと思ったのか、出浦が眉根をひそませたその時。
今まで背を支えてくれていたあやめの体温がひいた。
――パンッ。
小気味のよい音が、部屋中の空気を裂いて響いた。
何が起こったのか、稲にも出浦にも一瞬分からなかった。
気付けば、稲は遠い棚近くまで体が飛ばされ、崩れ折れていた。
出浦には、稲の長い髪がその顔を覆っているので、だから、彼女の顔が見えない。
が、やがてその肩がそっと動き、右手がその頬を戸惑いながら包んでいく。
鳴り響いたのは、稲の頬がぶたれた音。
稲は、そのまま信じられないものを見るように、あやめを見上げた。
「貴方が今、しっかりしないでどうするのですか?!貴方は本当に、本多忠勝殿の娘ですか?!戦場で名をはせた稲姫ですか?!そんな女に孫六郎は預けられません!返しなさい!そう、仙千代も一緒に私に手渡しなさい!」
言われて、稲の瞳をみるみる覆いつくしてゆくのは――。
それを見たあやめは満足そうに微笑むと、
「この沼田は稲様がしっかりと守ってくださいます。だから、ご安心くださいと信幸さまにお伝えください」
出浦に言う。苦笑いしたまま出浦は去っていく。
出浦が去った後、崩れ折れたままの稲に近づいたあやめは、ふわりといつもの姉のような温かくふんわりとした瞳を向けて微笑む。
「痛かった?」
頬に包む稲の手をあやめのそれが包む。稲は小さく頷くが、でも、と言う。
「でも、もっと痛いには信幸さまのお心」
「そうね」
だから、私たちがするべきことは――?
言われて稲はすっと立ち上がる。
蘇ってくる過去の戦場での記憶。鍛錬は怠っていない。
大丈夫。ぐっと下唇を噛み締め、前を真っ直ぐに見据えると、家臣たちに指示を出しに部屋を出る。
そして、忍城の時に感じたことを思い出す。
くのいちと甲斐姫の涙を見たあの時のこと。
戦は今まで親しくしていた者の関係を壊すことだってある。
それが今度は真田家に起きた。
心の底の悲しみを押し隠して、己の守るべきものを守るために戦う――。
あのふたりの涙を見て気付いた思い。
女が戦場に立つのは、守りたいものがあるから。
夫と子供たち、そして、家臣たちのひとりひとりを脳裏に思い返して、心新たにキッと顔を上げた。
――私が守るのは、信幸さまの選んだ道。
――どこかで信幸を見下していた。
父の言葉が幸村の胸から消えない。
沼田に向かい、馬を走らせながらそのことばかり考えていた。
子供の頃。
不器用で出来ないことが多かった兄。
それを克服しようと頑張り、無理をして体を壊す悪循環を繰り返していた兄。
それも仮病だったのかもしれないと父は言ったが、幸村にはそうは思えなかった。
当時は本当に病弱だった為、周囲が自分に持った病弱だという印象を、今はうまく利用しているのだろう。
確かに父の言うよりに兄を支え、守らなければいけないと思っていた。
兄を、というより本当は弟を――兄として守りたかったのかもしれない。
体が小さく、病弱だった信幸。自分がしっかり守らないといけないと思っていた。
そして、その思いが――。
信幸を見下している――ということなのだろうか?
子供の頃は、なぜこんなことが出来ないのか、不思議に思いながら信幸を見ていたのも真実。
でも、努力をする姿を本当に尊敬していた。
兄を見下している――違う、と幸村は胸の中で首を振る。
なのに今、幸村の心に迷いが生じてしまっている。実は自分の心の中、深いところで見下す気持ちがあったのか?実は持っていたのではないか?
が、幸村はそれを認めたくない。認められない。
信幸が好きだ。本当なら袂を分かつことなくそばにいたい。いままで通り。
沼田城を乗っ取れば、今まで通りになる。
わしもおめおめと信幸を家康にくれてやるつもりはない。
父がそう言った言葉は、幸村とて一緒だ。
頬に苦笑を浮かべて、仕方ないなと言って受け入れてくれる信幸の顔が想像できる。
その為にも――。
馬を休めせる為に休憩をした時。
もうそろそろ沼田に入ろうとしている頃だった。
「嫁が作った陣羽織は持っているか?」
昌幸が突然そんなことを言ったので、幸村は頷いた。
小田原の役の際、稲が作ったという陣羽織を、忍城の時に信幸が突然稲を連れてきた時に、受け取ったもの。
あの頃、これが泰平の世を迎えるための最後の戦だと思っていた。
なのに、再び起きた騒乱。
確かに父の言う通り、信幸を手に入れ、父と兄で前の上田合戦の折のように徳川勢を翻弄し、自分が三成たちとの兵に合流できたら勝機はある。
ちょこまかと少人数部隊でも多勢を翻弄する戦法は信幸が得意だ。
今までもそうだった。
敵を信幸が翻弄し、混乱したところを昌幸と幸村で討ち取る。
「嫁は情に脆い部分がある。用心の為に羽織っておけ」
幸村は頷く。
しばらく、ぼんやりとしていたが、幸村さまと呼ばれて顔を上げる。
見上げればそこにいたのは不安そうなくのいち。
「信幸さま、振り向いてくれなかったよ」
「そうか」
去っていく信幸を呼んだが、振り返ってもらえなかったということだろう。
くのいちにも信幸は優しかった。
だから、振り向いて貰えなかったことだけでも悲しいらしい。
「悲しいな」
「私より悲しいのは、幸村さまでしょ?」
幸村は、力なく笑うことしか出来なかった。
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