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月が赤い。

そう言ったのは信幸。
もうずいぶん前のことだ。信幸が甲府から戻ってきたばかりの頃。
幸村は兄に引っ付いてばかりいた。久しぶりに会った兄が、別人のように思えて、会えなかった期間を補うように傍について回っていた。

「月が赤い?」
「なんだか不気味に見えないか?」

夜空を仰いで信幸が指差す先に赤い月。
月が赤いことなど別段珍しくない。よく見る。よくある。
だから、兄が何を不気味がっているのだろうと思ったものだ。
けれど、今。
信幸が言ったことが分かるような気がした。
幸村は赤を滲ませた月を見上げながら、どくどくと脈が早まるような気がした。
信幸の血を思い出す。
兄の首から、手から流れた赤。
今宵のあの赤は――。
今日、誰かの生き血を浴びて、赤く染まったのではないか。
そんな気持ちにさせらながら、ぼんやりと視線を遠い月に放つ。



信幸と槍でやり合った翌日。
幸村は戸石城に迫り来る六文銭――信幸たちの軍勢――に城を開け渡し、上田城に入った。

「なぜ信幸と戦わなかった?」

昌幸は、低く落ちついた声音だが、不快そうに眉を歪ませている。
父の問いかけに幸村は、しばらく沈黙を保つ。
問いかけた本人も別段返事を期待していなかったのか、息子の沈黙に合わせる。
幸村としては、どうでもいいから早く出て行ってくれないか、そう思いつつもそれを告げることも出来ず、だからといって信幸とし合ったことを話すのも億劫で、その苛立ちが眉に出た時。

負けて勝つ。

昌幸が鼻先で笑いながらそう言った。

「くのいちから聞いた。信幸とやり合ったらしいな。そして、勝ったが殺せと言われてお前は殺せなかった」

鼻先の笑いを弾ませ、

「最初から信幸はそれが目的だったのだろうな」

分かっている、と幸村も思ったが口には出さない。
つまりは、自分は兄に勝って負けたのだ。負けは負けだ。

「まぁ、いい」

昌幸が薄い笑いを揺らして言った。

「戸石を失っても勝算はある。信幸もそれを分かっているのだろう」

面白い気に笑う父から、幸村は目を反らす。
上田では勝算はあるだろう。
けれど、上方はどうなっているのだろうか。真田家と三成は今は書状を交わし連絡を取り合っているが、不安が渦巻いて仕方がない。
あの時――。
稲に邪魔されることなく沼田を乗っ取れていたならば。
そればかり考えている。
上田を父と兄に預け、自分が三成の傍に行ければ。
信幸を手に入れらたなら、稲も信幸に従うだろう。
そうなっていれば――洩れるは溜息。


秀忠は、上田城に進撃をした。
信幸から上田城の構造等を聞き出していたので、兵力の差からして勝てると思っていたが、先の上田合戦の二の舞となってしまった。ここで無駄な8日間を過ごすはめになった。
秀忠は悔しさに歯噛みしながらも、上田で足止めをくっているわけでにも行かずに、抑えの軍を置き、自らは上方へと出発した。信幸もそれに従った。
しかし、時すでに遅し。
関ヶ原で合戦が起き、徳川軍が勝ったという知らせを受けることになる。
秀忠率いる軍は、大戦に間に合わなかった。


そして、幸村が赤い月を見たその日。
その日に、三成は六条河原で斬首され、その首は三条河原に晒されることとなった。



それを幸村が知ったのは、だいぶ後のこと。
関ヶ原の後も、昌幸と幸村は上田城に篭り、決戦を辞さない構えでいた。
そんな中、信幸からの使いより三成の斬首を知らされた。

「信幸さまがおっしゃるには」

今はとにかく大人しくしていて欲しい――とのことです。
それを受けて、昌幸が声を出して笑う。
ひとしきり笑った後、ふっ・・・と鼻先に苦笑を集めて揺らして散らし、

「信幸は何をするつもりだろうな」

無の表情でぽつり言った。
幸村は、そんな父を奇妙な切なさが揺れる思いで見つめる。

「息子たちがいる。徳川殿にお預けしたから平気だ。私が死ねば、それはきっと大切に両義父の庇護を受け、真田の家名を繋いでくれるだろう」
「ここで死ぬのも悪くないと思ったんだがな」

信幸の言葉が思い返される。

そして、三成が死んだ――。
それが幸村には、非現実なことのように思えて、実感がない。
結局、上杉も動くことがなかったという。上杉には兼続がいるのにも関わらず。

三成は――。

どんな心境で死んでいったのだろうか?
ぼんやりとそんなことを考えた。
考えはするが、それははかなく、上の空で答えなど出るわけもなく、ただぼんやりと頭の中を流れていく。




その一行が到着したのは、すでに夜も更けた後。
闇を舐めるような寒風の中だった。
全ては聞いた稲は、いてもたってもいられずに沼田を出て、わずかな共だけを連れ、伏見に向かった。稲の到着を聞いて信幸は、

「本当に来たのか」

そうとだけ言ったと聞く。
それから数日。
まだ信幸と顔を合わせていない。まだ何も話せていない。

――避けられている。

そう思った。
それは、息子たちを家康に預けると言った時から。
有無を言わせないような無機質な瞳を稲に向け、稲が信幸を怖いと思ったあの時から。
それから確かに信幸は忙しかった。
余裕がないのだろう――と納得させていた心に影がさす。
同じ屋敷の手に届く距離にいるのに、信幸が遥か向こうに感じれる。





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