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2024/11
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こんな月を見たことがある。幸村は思う。
記憶にある最初は、少年の頃。

「月が赤い。なんだか不気味に見えないか?」

兄はそう言った。
月が赤いことなど別段珍しくない。よく見る。よくある。兄が何を不気味がっているのだろうと思ったものだ。
その言葉の意味が分かったのは、友人だった三成が斬首された日。

赤を滲ませた、あの月。
どくどくと血の脈を鳴らす赤い月。
月が照らす赤いしずくを、瞳に、記憶に、体に浴びさせる。

「誰の生き血を浴びた月か・・・」

幸村は、ゆらり唇を揺らして、ぼんやりと視線を遠くに放つ。大助以外の妻子は、城外へと逃した。




かりそめの和平は崩れ去り、再び戦端が切られた。
樫井の戦闘で、塙団右衛門敗死、城の南、道明寺にて後藤基次討死、八尾若江にて木村重成討死。
大坂方は次第に追い詰められていくばかり。


――ヒュンッ。

稲が弓を射る。
その気配を察した時に、稲が家康に告げたとおり、家康は身をかかげ、その場から離れる。

――信之さまの言った通りだ。

稲は弓を放ち、幸村は稲の放った弓を槍で受け流す。
その勢いのまま家康の本陣にまでやってきた幸村に、稲は挑みかかる。
槍と弓が高い音を立てて鳴った。
互いに、一陣の旋風のように肉薄し、躍りあがって槍と弓を合わせる。
凄まじい刃風が、互いの体ぎりぎりをすり抜けていく。

「信之さまは――・・・」

稲が搾り出すように低い声を出した瞬間、幸村に隙が出来た。
それに稲は、つかさず弓の照準を幸村の胸へと照らし合わせ、互いに視線を交差させる。
珍しく幸村が肩で息をしていた。
けれど、すぐに幸村が槍をふり絞り、稲へと振りかざし、稲は倒れこんだ。
その首に幸村の槍が当てられる。

キィィィィ・・・ンと高い音が互いの鼓膜を奮わせる。

幸村の息が荒い。
それだけこの戦は疲労が激しいのだろう。肉体だけではなく精神的にも。

幸村は稲に槍を当てたまま、家康を取り囲む手下の兵たちを睨みつける。
じりじりと動き出しそうなその兵たちの様子を見ながら、スッ・・・と稲の首元から槍を引き抜く。

そのまま、ゆっくりと、けれど、隙を与えず歩いていく幸村に、

「幸村ーっ!!!」

稲が声を張り上げる。

「私を止めてくださったのが、義姉上でよかった」

そう言って一瞬振り返る。

――きっと兄上だったら、共倒れだ。
――兄上に殺されるのは構わない。けれど、兄上を殺すことは出来ない。兄上も同じこと。
――だから、互いに刺し違えるだけ。


「天下、あなたこそ日本一の兵と褒めそやしてします!もののふの意地はたちました!もはや、死ぬには及びません!どうか!!」

「どうか、お健やかに、義姉上」

駆け抜けていく幸村に、稲は声を張り上げる。
兵たちの怒号が重なり、届いているか分からないけれど、出せる限りの声を張り上げて、幸村に訴える。

「信之さまに会いたくないのですか!!」

本当は信之さまの貴方に会いたいのですよ!命がなければ会えないのですよ!死んで何になるのです?!!

その背が見えなくなっても、ずっと稲は叫び続ける。
そのまま、力なく倒れこんだ稲の肩に触れたのは家康。

「信之が指示したのか?幸村が来るからわしの傍にいろと」

稲はゆっくりと頷く。そうか、と家康は唸ると、稲をゆっくりと立ち上がらせる。

「稲は大変な家に嫁いでしまったな」

稲は首を振る。

「この上なく、幸福な婚姻を殿は下さいました。感謝しております」







微風を奮わせるように、その刃は信之の目の前に突き出された。
その刃先から逃れようともせず、

「稲ですか?」

信之は、にこりと微笑む。それに誾千代は、首を振る。

「では、立花殿?」

再び誾千代が首を振れば、信之は考え込んだように、瞳を動かした後、

「右近ですか?」

誾千代が頷けば、面白気にクククッと信之は喉を揺らして笑った。
あぁ、右近ですか、と呟きを落とした後、すっ・・・と静かに素早く脇差の刀を抜き、自分に突きつけられている誾千代の剣の先を、払いのける。
一瞬の出来事で、誾千代は息を呑む。

「こんな脅しをしなくとも私は行かない」

強いのではなく、巧い人だと誾千代は思った。不思議と悔しさはない。
京都伏見の真田屋敷。
誾千代は右近の手引きで忍び込み、信之が一歩でも外に出ようとしたら止めてくれと頼まれていた。信之が人目を避けるように屋敷の外に出たので、誾千代が剣を抜いたのだ。

「弟を殺して、自らも命を落とされるつもりかと」
「少し前まではそうしたいと思ってました」

絶えず微笑を浮かべたまま、決して感情のうねりを見せようとしない信之を、誾千代はじっと見つめる。

「どうやら私は親ばかなようでして」
「えっ?」

脈絡のない返答に誾千代は困惑する。

「私が死んだところで、息子たちに家を預けてももう大丈夫、その息子たちがいれば稲も生きていけると思っていたのですが、それがしかし、息子たちはまだまだ半人前、いや、それ以下だったようでして、まだまだ死ねないと思いました。妻も妻で、自分より先に死ぬな、などと言う」
「――・・・私も、同じコトを言ったことがあります」
「誾千代殿が?」

お前が私より先に逝くことなど許さない。かつて誾千代が、宗茂に言った。

――お前はいつも私の先を行く。けれど、これだけは許さない。
――お前が私より先に死ぬことだけは許さない!!

今でもそう思っている。

「男より女の方が長生きだというのに、わがままですね、ふたりとも」
「そうですか?」
「そうですよ」

信之にそう言われて、誾千代もふっと笑う。

「でも、守るべきものが多ければ、生きなければならないでしょう?逆に言えば、私と稲殿は、自分より先に死なさない為にも、自分たちも生きなければならない。そういうことです」
「女の考えることは恐ろしい。そうやって男を焚きつける」

信之が、一瞬遠いものの輪郭を捉えるように、目を細める。

「どこへ行かれようとしていたのですか?」
「民の噂話を聞きに、ただぶらぶら散歩するつもりでした。誰よりも早い情報を彼らは得ますからね。だから、そんな物騒なものはしまって」

付き合ってください、と信之は誾千代を誘う。




茶臼山北側。
家康の陣に突入を果たした後、幸村はそこでしゃがみこんでいた。
疲れた、口腔で呟く。
今までこんなことはなかった。
どんな戦場でさえも精神が張っていたのか息を切らすことも、また、起き上がれなくなるぐらい疲労することなどはなかった。
ここまで痛手となる怪我を負うこともなかった。

――さぁ・・・、殺せ。

幸村は思う。どんな雑兵でもいい。この首を取って功名とするがいい。
稲の声は聞こえていた。
怒号に混ざって消え入りそうなのに、不思議とはっきりと聞こえた。


本当は信之さまの貴方に会いたいのですよ!命がなければ会えないのですよ!死んで何になるのです?!!

義姉はそう言った。
けれど、生きていて何になる。幸村は瞼を閉じる。
何もかも忘れ、耳を塞ぎ、闇の中に溶け込みたい。
あぁ、傷が痛むのならまだ耐えられる。もう生き続けるわけが見えない。それが辛い。

しばらくそのままじっ・・・としていた。疲労感からほんの少し眠ったらしい。
いや、気を失ったのか?
けれど、気分が良い夢だった。
夢の中は空白。ただ白い世界。
それを掻き分けるように行けば、そこにぽつんと灯るものがあった。

あぁ、あれを探していた。なぜかそう思った。
それはとてもあたたかいもの。切ないもの。
帰りたい場所。
けれど。
帰れない場所。

兄上――口に出したつもりが声にならなかった。
くのいち、里々、大助、義姉上・・・声にならない。ただ頬に温かいものが一筋流れた。




人の気配を感じて、面倒ながら瞼を開く。
討たれるのは別に構わない。ただ、自分を討つ男の顔だけは見ておきたい。
そう思って瞼を開けば、

「右近・・・」

やっと見つけた、と右近は言った。
右近ならいい、と幸村は頬に笑みを浮かべる。
右近なら自分の最期を兄に伝えてくれる。そんな幸村に右近は、

「もう勝手に死ぬ気になってないで下さい」

冷たく言い放つ。思わず幸村は唇の端に苦笑を浮かべる。

「私を殺せ」
「私が命令に従うのは、信之さまただひとりです」
「お前は・・・、本当に兄上が、好きだな」
「それはお互いさまでしょう?」

傷の手当てをしようとする右近に首を振る。

「幸村さまが死んだら、信之さまがどうなるかお分かりですか?人を壊すのは、人の死だと信政さまが言ってましたよ」
「信政が・・・?」

もう声が出なくなっていることに幸村は気付いた。それでも、最期の力を振り絞って、

「ならば、右近――」

ゆらり嗤った。


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