×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ひらり抜いた刀身を、大助は見つめる。
当初、大助は幸村とともに戦場にいたが、父の命で大坂城に戻った。
内通を疑われたままだ。
二心ないことを秀頼さまの傍に侍して証明せよ、そう言われた。
その時の父は、決して反論を許そうとしなかった。
自分を人質に、秀頼様の出陣を仰ぐつもりだということと、もうひとつ自分を戦死させないためだということは十分に伝わってきた。
そんな父が死んだ、と大助は聞かされた。
――もう大坂城は終わりだ。
火がかけられた。
夜空の中、大坂城が火を吹いた。
誰が火をつけたのか分からない。味方が悲観してつけたのか、内通していたものが火を放ったのか、気付いた時には、もう炎の手は大きく広がり、城内を握りつぶそうとしていた。逃げ帰ってくる豊臣方の兵、攻め込んでくる徳川方の兵の入り交ざり、喉も枯れぬばかり叫ぶ者や、逃げ惑う女の声。
事実、大助の周囲にも煙が漂いはじめている。
父に多くのことを教わったが、切腹の作法は教わらなかった、と大助は思った。
けれど、腹を切ればそのうち死ぬのだろう。
そして、舞い上がる火に巻き込まれて、遺体も誰のものか分からなくなる。
自分の目の前に刃を向けながら大助は瞼を閉じる。
そして、ふいに思い出す伯父からの文。自分が手習いの手本としていた文。
「――里々殿、無事出産のことと知り、安堵いたしております。まだ見ぬ甥の姿を心に思い描くにつけ、早くその顔を見れる日がくることを願うばかりです。まだ私の力が足りぬ為、不自由をかけていることを申し訳なく思っております。こちらは稲、孫六郎、仙千代に、昨年生まれましたまんも元気にしておりますのでご安心ください。」
すっかり覚えてしまっているそれを口に出してみる。
「生まれたばかりの甥が、成長し元服を迎える前までには、その身がたつように働きかけ、必ずや実現させる所存でおります。まだ長く不自由をかけることと思いますが、私を信じてください。」
ただ文字をなぞっていただけだった、と大助は思う。
その言葉のひとつひとつを辿れば、伯父の愛情が感じられる。
なぜ気付かなかったのだろう。
なぜ妬み、羨み、憎んだのだろう。
罪人の子供として産まれ、伯父たちからの仕送りで養われ、それがどうしようもなく歯痒くて仕方がなかった。
そして、一方で従兄弟たちは何の不自由もない生活をしている。そう思っていた。
けれど、違った。
従兄弟たちも互いの生まれに葛藤を持って生きていた。
正室腹と側室腹。それがどんなに大きい違いなのか大助には正直分からない。
今までの自分は、ずっと本家の人間を憎んでいた。
けれど、もしかしたら、憎むことが愛することの同義語であったのかもしれない。
「二分してしまった今でさえ、どこかで血は共鳴しあっている。お前たちが死んだら――」
「人を壊すのは、人の死だ。それだけを覚えておけ」
そう言われたが、もうどうしようもない。
憎むことしか知らなかった。いや、知ろうとしなかっただけかもしれない。
ひらり刀身を腹に突きつけたその時。
「まったく親子でなんでこんなに死にたがりなんだ」
そんな声がした。右近だとすぐに大助は分かったが、その姿を見て一瞬疑いかけた。もう元の色が分からないぐらいに泥と血を浴びた戦塵にまみれた甲冑姿で、疲れ切っている。
「右近、お前の父は切腹して果てたのだろう?」
「そうですよ」
右近の父は自身が守る城を奪われた責任をとって自害した。
「切腹の作法は知っているか?」
「お父上に教わらなかったのですか?」
「あぁ、教えてもらえなかった。教えてくれ。そして、お前に介錯を頼みたい」
「少し休む時間ぐらい下さい」
右近は面倒臭そうに溜息を落としながら、大助をじろじろと見た後、
「私もしたことがありませんし」
「当たり前だろう!」
「だから、うろ覚えで申し訳ありませんが、大将の身分の者は、佩楯だけを残して具足は脱ぎます。それから――」
説明を終えた右近に、大助が問う。
「お前は生きて伯父上の元へ戻るのだろう」
「そうですよ」
右近は素っ気無く答える。
けれど、視線はちらりちらり煙がけぶってくる方を気にしている。
火の手を気にしているのか。確かに逃げるのなら火の手は気になるだろう。
早く腹を斬るべきか。大助は思う。
「私が命を聞くのは、信之さまただひとりですから」
「会って伯父上が、なぜそんなに慕われるのか分かった気がした。父上もお前も伯父上が好きだもんな」
大助が、低く笑った。
「大坂城入りを後悔していますか?」
訊ねられて、大助はふんと鼻を鳴らした。後悔などしていない。
これが真田大助の一生だ。他のかたちでは有り得なかった。他にはなかった。これしかなかった。
こうして生き急ぐことで、生を感じ、日本一のもののふと言われた父の子供として生まれて、短いながらに戦場に向かい、あかあかときらめいて、こうして果てるのだ。
これが真田大助の一生だ。
「後悔はない。ただ――」
大助の唇から、皮肉な色がひらり落ちて、
「ただ、やり方を間違えたかもしれないという思いがあるかもしれない」
そう思うと心が沈むが、それももう終わりだ。
そんな大助に、右近は頬に薄笑いを浮かべたまま、妙に優し気に大助を見る。
「お前はなぜずっとこちら側にいた?間諜か?」
「私は、信之さまの命にしたがっていたまでのこと」
「伯父上の?」
それはどういう――問いかけようとして止めた。知ったところで何になるというのだ。
大助は再び、太刀を握った。
刀身を再び、自らの腹に付きたてようとしたその時。
「間違ったと思うならやり直す。己の為だけでなく、他人を生かす為に生き抜く。そんな生き方もすばらしいものだと思いますが」
と、右近の声を聞いた気がした。
けれど、大助の耳には入らなかった。刀身が、大助の腹に突き刺さる。
その瞬間、右近はくのいちと声を上げる。
大助の目の前が、暗闇に覆われ、そのまま、何も聞こえなくなった。
「戦場に残されていたのは、この槍だけ」
稲が信之に槍を差し出す。
信之は、それを無言で受け取り、目を細める。
「幸村さまは、どこかで生きている。そんな気がしてなりません。だから、生きて真田の家を守らないといけないと思いました。帰ってきた時に、笑顔で迎えられるように・・・」
そこまで話して、稲の中に悲しみと悔しさ、愛しさと切なさが入り混じった複雑なものが胸に押し寄せてきて、たまらなくなった。
そのまま、沈黙が続いた。
稲が続く言葉を紡げないでいると、信之が片手を伸ばして、稲の頬に触れた。
頬に触れた手に、稲は自分の手を重ねて握り、夫を見つめる。
そんな稲を信之は、幸村の槍を置いて、もう片方の手でふんわりと抱きしめる。
滲んでくる温かさに稲は体を預ける。
ありがとう、と言った信之の言葉に稲は首を振る。
このぬくもりを失わなかったことがたまらなく嬉しい。
そう思うことはやはり我侭なのだろうか?けれど、それでいいと思った。
信之が、稲の顔を覗き込むと、両の目から真新しい涙が、細く形良い顎の下まで真っ直ぐに伝って落ちていく。
稲の指が、信之の手に蔓のように絡まってくる。
離せないな――信之が思う。この手を一生離すことができないだろう。
絡まった手をぐっと信之が力を込めて握る。
ぐずぐずと鼻をすすって泣く稲がたまらなく愛しおしい。
「あ、あの・・・」
あぁ、手が痛かったのだろう、と手を緩めれば、逆に強く握り返された。
「なぜ誾千代さまとご一緒だったのですか?」
予想外の稲の問いに、思わず信之は吹き出す。
吹き出して笑って、あぁ、笑っていられると思った。幸村の消息が分からぬとも自分が笑っていられる。それがたまらなく苦しく薄情に思えるが、けれど、これでいいのだと思った。
稲が急いで伏見の真田屋敷に戻れば、信之の姿がないと大騒ぎになっていた。
もしや幸村の元へ――稲が慌てたのは当然のこと。
そんな騒ぎになっていることなど考えもしなかったらしい信之は、ぷらりとひとりで何事もなかったかのように戻ってきた。稲が怒りながら問いただせば、
「誾千代殿と一緒に散歩をしてました。ついでに一緒に京に来ている千熊丸殿に会わせてもらい、小さい子供はもう懐かしく、つい時間を忘れました」
などとのん気に言ったので、思わず稲は脱力した。
けれど、なぜ誾千代と一緒だったのだろうとずっと気になっていたのだ。
「どうやら右近に頼まれたらしいです。私が大坂に行かないように見張ってくれと。右近も大名の妻に、そんなことを頼むとは命知らずだ」
「それがなぜ一緒に散歩になるのですか?」
「町で民の噂話を聞いていたのですよ。幸村はとても評判になっていた。きっと後世に語り継がれるのでしょうね、私も鼻が高い」
本当に嬉しそうに信之が言うので、稲もつられて鼻をすすりながら、微笑む。
そんな稲に、
「すごい顔になってますよ」
「えぇ?!!」
思わず絡めていた手を離して、両手で顔を覆うと、クククッと信之が笑うので、からかわれたのだと気付いた稲は、キッと夫を睨みつける。
この戦にも参陣していた息子ふたりが帰陣した時。
なかなか顔を上げられないふたりに信之は、
「なんだ、ふたりとも討死せずに戻ったのか。忠節のために、ひとり死んでくれと言ったではないか」
そんなことを言う。それに稲が、
「なんてひどいお父上なのでしょうか」
と言いながら、ふっ・・・・と笑うが、その笑いも歪んで消えていく。
「ふたりとも無事で良かった」
ぽろり母が零した言葉に、兄弟は顔を上げる。
「真田家の誇りを守る為にも、ふたりとも生きて帰ってくるのですよ、と言った母の言葉をふたりがよく守ってくれました」
「――父上と母上が言うことが違うから、困ります」
信吉が、低く笑う。
それに信之は、ふっ・・と笑って、けれど、それをすぐに打ち消して、息子を見つめ、
「まだ教えないといけないことも多そうだから、死なれても困るな」
今度は、くくっと中途半端な笑いを落とした。
それに信吉と信政は、顔を見合わせて肩をすくめる。
【戻る】【前】【次】
当初、大助は幸村とともに戦場にいたが、父の命で大坂城に戻った。
内通を疑われたままだ。
二心ないことを秀頼さまの傍に侍して証明せよ、そう言われた。
その時の父は、決して反論を許そうとしなかった。
自分を人質に、秀頼様の出陣を仰ぐつもりだということと、もうひとつ自分を戦死させないためだということは十分に伝わってきた。
そんな父が死んだ、と大助は聞かされた。
――もう大坂城は終わりだ。
火がかけられた。
夜空の中、大坂城が火を吹いた。
誰が火をつけたのか分からない。味方が悲観してつけたのか、内通していたものが火を放ったのか、気付いた時には、もう炎の手は大きく広がり、城内を握りつぶそうとしていた。逃げ帰ってくる豊臣方の兵、攻め込んでくる徳川方の兵の入り交ざり、喉も枯れぬばかり叫ぶ者や、逃げ惑う女の声。
事実、大助の周囲にも煙が漂いはじめている。
父に多くのことを教わったが、切腹の作法は教わらなかった、と大助は思った。
けれど、腹を切ればそのうち死ぬのだろう。
そして、舞い上がる火に巻き込まれて、遺体も誰のものか分からなくなる。
自分の目の前に刃を向けながら大助は瞼を閉じる。
そして、ふいに思い出す伯父からの文。自分が手習いの手本としていた文。
「――里々殿、無事出産のことと知り、安堵いたしております。まだ見ぬ甥の姿を心に思い描くにつけ、早くその顔を見れる日がくることを願うばかりです。まだ私の力が足りぬ為、不自由をかけていることを申し訳なく思っております。こちらは稲、孫六郎、仙千代に、昨年生まれましたまんも元気にしておりますのでご安心ください。」
すっかり覚えてしまっているそれを口に出してみる。
「生まれたばかりの甥が、成長し元服を迎える前までには、その身がたつように働きかけ、必ずや実現させる所存でおります。まだ長く不自由をかけることと思いますが、私を信じてください。」
ただ文字をなぞっていただけだった、と大助は思う。
その言葉のひとつひとつを辿れば、伯父の愛情が感じられる。
なぜ気付かなかったのだろう。
なぜ妬み、羨み、憎んだのだろう。
罪人の子供として産まれ、伯父たちからの仕送りで養われ、それがどうしようもなく歯痒くて仕方がなかった。
そして、一方で従兄弟たちは何の不自由もない生活をしている。そう思っていた。
けれど、違った。
従兄弟たちも互いの生まれに葛藤を持って生きていた。
正室腹と側室腹。それがどんなに大きい違いなのか大助には正直分からない。
今までの自分は、ずっと本家の人間を憎んでいた。
けれど、もしかしたら、憎むことが愛することの同義語であったのかもしれない。
「二分してしまった今でさえ、どこかで血は共鳴しあっている。お前たちが死んだら――」
「人を壊すのは、人の死だ。それだけを覚えておけ」
そう言われたが、もうどうしようもない。
憎むことしか知らなかった。いや、知ろうとしなかっただけかもしれない。
ひらり刀身を腹に突きつけたその時。
「まったく親子でなんでこんなに死にたがりなんだ」
そんな声がした。右近だとすぐに大助は分かったが、その姿を見て一瞬疑いかけた。もう元の色が分からないぐらいに泥と血を浴びた戦塵にまみれた甲冑姿で、疲れ切っている。
「右近、お前の父は切腹して果てたのだろう?」
「そうですよ」
右近の父は自身が守る城を奪われた責任をとって自害した。
「切腹の作法は知っているか?」
「お父上に教わらなかったのですか?」
「あぁ、教えてもらえなかった。教えてくれ。そして、お前に介錯を頼みたい」
「少し休む時間ぐらい下さい」
右近は面倒臭そうに溜息を落としながら、大助をじろじろと見た後、
「私もしたことがありませんし」
「当たり前だろう!」
「だから、うろ覚えで申し訳ありませんが、大将の身分の者は、佩楯だけを残して具足は脱ぎます。それから――」
説明を終えた右近に、大助が問う。
「お前は生きて伯父上の元へ戻るのだろう」
「そうですよ」
右近は素っ気無く答える。
けれど、視線はちらりちらり煙がけぶってくる方を気にしている。
火の手を気にしているのか。確かに逃げるのなら火の手は気になるだろう。
早く腹を斬るべきか。大助は思う。
「私が命を聞くのは、信之さまただひとりですから」
「会って伯父上が、なぜそんなに慕われるのか分かった気がした。父上もお前も伯父上が好きだもんな」
大助が、低く笑った。
「大坂城入りを後悔していますか?」
訊ねられて、大助はふんと鼻を鳴らした。後悔などしていない。
これが真田大助の一生だ。他のかたちでは有り得なかった。他にはなかった。これしかなかった。
こうして生き急ぐことで、生を感じ、日本一のもののふと言われた父の子供として生まれて、短いながらに戦場に向かい、あかあかときらめいて、こうして果てるのだ。
これが真田大助の一生だ。
「後悔はない。ただ――」
大助の唇から、皮肉な色がひらり落ちて、
「ただ、やり方を間違えたかもしれないという思いがあるかもしれない」
そう思うと心が沈むが、それももう終わりだ。
そんな大助に、右近は頬に薄笑いを浮かべたまま、妙に優し気に大助を見る。
「お前はなぜずっとこちら側にいた?間諜か?」
「私は、信之さまの命にしたがっていたまでのこと」
「伯父上の?」
それはどういう――問いかけようとして止めた。知ったところで何になるというのだ。
大助は再び、太刀を握った。
刀身を再び、自らの腹に付きたてようとしたその時。
「間違ったと思うならやり直す。己の為だけでなく、他人を生かす為に生き抜く。そんな生き方もすばらしいものだと思いますが」
と、右近の声を聞いた気がした。
けれど、大助の耳には入らなかった。刀身が、大助の腹に突き刺さる。
その瞬間、右近はくのいちと声を上げる。
大助の目の前が、暗闇に覆われ、そのまま、何も聞こえなくなった。
「戦場に残されていたのは、この槍だけ」
稲が信之に槍を差し出す。
信之は、それを無言で受け取り、目を細める。
「幸村さまは、どこかで生きている。そんな気がしてなりません。だから、生きて真田の家を守らないといけないと思いました。帰ってきた時に、笑顔で迎えられるように・・・」
そこまで話して、稲の中に悲しみと悔しさ、愛しさと切なさが入り混じった複雑なものが胸に押し寄せてきて、たまらなくなった。
そのまま、沈黙が続いた。
稲が続く言葉を紡げないでいると、信之が片手を伸ばして、稲の頬に触れた。
頬に触れた手に、稲は自分の手を重ねて握り、夫を見つめる。
そんな稲を信之は、幸村の槍を置いて、もう片方の手でふんわりと抱きしめる。
滲んでくる温かさに稲は体を預ける。
ありがとう、と言った信之の言葉に稲は首を振る。
このぬくもりを失わなかったことがたまらなく嬉しい。
そう思うことはやはり我侭なのだろうか?けれど、それでいいと思った。
信之が、稲の顔を覗き込むと、両の目から真新しい涙が、細く形良い顎の下まで真っ直ぐに伝って落ちていく。
稲の指が、信之の手に蔓のように絡まってくる。
離せないな――信之が思う。この手を一生離すことができないだろう。
絡まった手をぐっと信之が力を込めて握る。
ぐずぐずと鼻をすすって泣く稲がたまらなく愛しおしい。
「あ、あの・・・」
あぁ、手が痛かったのだろう、と手を緩めれば、逆に強く握り返された。
「なぜ誾千代さまとご一緒だったのですか?」
予想外の稲の問いに、思わず信之は吹き出す。
吹き出して笑って、あぁ、笑っていられると思った。幸村の消息が分からぬとも自分が笑っていられる。それがたまらなく苦しく薄情に思えるが、けれど、これでいいのだと思った。
稲が急いで伏見の真田屋敷に戻れば、信之の姿がないと大騒ぎになっていた。
もしや幸村の元へ――稲が慌てたのは当然のこと。
そんな騒ぎになっていることなど考えもしなかったらしい信之は、ぷらりとひとりで何事もなかったかのように戻ってきた。稲が怒りながら問いただせば、
「誾千代殿と一緒に散歩をしてました。ついでに一緒に京に来ている千熊丸殿に会わせてもらい、小さい子供はもう懐かしく、つい時間を忘れました」
などとのん気に言ったので、思わず稲は脱力した。
けれど、なぜ誾千代と一緒だったのだろうとずっと気になっていたのだ。
「どうやら右近に頼まれたらしいです。私が大坂に行かないように見張ってくれと。右近も大名の妻に、そんなことを頼むとは命知らずだ」
「それがなぜ一緒に散歩になるのですか?」
「町で民の噂話を聞いていたのですよ。幸村はとても評判になっていた。きっと後世に語り継がれるのでしょうね、私も鼻が高い」
本当に嬉しそうに信之が言うので、稲もつられて鼻をすすりながら、微笑む。
そんな稲に、
「すごい顔になってますよ」
「えぇ?!!」
思わず絡めていた手を離して、両手で顔を覆うと、クククッと信之が笑うので、からかわれたのだと気付いた稲は、キッと夫を睨みつける。
この戦にも参陣していた息子ふたりが帰陣した時。
なかなか顔を上げられないふたりに信之は、
「なんだ、ふたりとも討死せずに戻ったのか。忠節のために、ひとり死んでくれと言ったではないか」
そんなことを言う。それに稲が、
「なんてひどいお父上なのでしょうか」
と言いながら、ふっ・・・・と笑うが、その笑いも歪んで消えていく。
「ふたりとも無事で良かった」
ぽろり母が零した言葉に、兄弟は顔を上げる。
「真田家の誇りを守る為にも、ふたりとも生きて帰ってくるのですよ、と言った母の言葉をふたりがよく守ってくれました」
「――父上と母上が言うことが違うから、困ります」
信吉が、低く笑う。
それに信之は、ふっ・・と笑って、けれど、それをすぐに打ち消して、息子を見つめ、
「まだ教えないといけないことも多そうだから、死なれても困るな」
今度は、くくっと中途半端な笑いを落とした。
それに信吉と信政は、顔を見合わせて肩をすくめる。
【戻る】【前】【次】
PR