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朝から激しく雨が降り続いていたが昼過ぎになると雨足は衰えていた。
絹糸のように大人しくなったので、その隙を狙って、用を片付けるのに外に出たのはいいが、足元はぐちゃぐちゃで、稲は溜息を落とす。
あぁ、もうと苛立ちを声に出した途端、雨粒が頬に触れ、再び降り出した。
もう屋敷まで走ろう。鍛錬にもなる。
そう自分に言い聞かせて屋敷まで走って帰れば。
(――・・・?)
屋敷門前が慌しい。来客の様子なのだ。
裏口からこっそり入ろうと踵を返そうとした時、驚いた声で名前を呼ばれた。
ビクリと体を震わせ、こっそりと振り返れば父の姿がある。
そして、その隣に家臣でもない男の姿。
(誰?)
見たことがあるようなないような。
記憶を探ってみて、あぁ、あれは三方ヶ原や上田での戦いで会った・・・。
真田幸村?いや、違う。似ているけれど、違う。
思わずその男をじっと見ていると、男も稲の視線に気付いたらしく稲を見た。
あれは――。
ホウセンカの種が弾けるように稲は誰なのか分かった。
真田信幸だ。
上田城を攻めた時に、遭遇している。
その真田信幸が主君である家康の元に出仕しているとは父から聞いていた。
稲は自然とその男を睨みつけていた。
上田では負けた。
稲たちの兵を前に信幸は一旦兵を引き、こちらは一瞬気を抜いた隙にまた攻めてきた。上田での徳川と真田の戦いでは、昌幸と幸村の活躍ばかりが目を引くが、信幸は地味に陰険に徳川軍を翻弄し、その兵力を削いでいった。
強いのではなく戦を功名に動かす男だ、と徳川では評価されていた。
思い出して悔しくなり、ついつい稲の中に渦巻くそれが、稲に信幸を睨ませる。
そんな稲の視線を信幸は、さらりと受け流し、稲の父である忠勝に何か言っており、忠勝が申し訳なさそうにしている。
なんだか嫌な男、と稲は思った。
稲を見た時の目が小馬鹿にしている風だった。
家臣に促されるように信幸は、屋敷の中へと入っていく。
それを見ていた稲だったが、男の姿が見えなくなるのを待って父に駆け寄り、
「あれは真田信幸ですよね?」
そう尋ねるが父は答えず、
「その姿はどうしたんだ?!」
と珍しく苛立った声を上げた。
言われて稲は、自分がずぶ濡れの泥だらけだと改めて気付き笑う。
「ちょっと出ていたら雨に降られました」
「――なんだってこんな日に・・・」
珍しくぐちぐちと説教してくるので、稲は普段ならこんなことに文句を言わないのにと小首を傾げる。
「いいから早くその薄汚い姿をどうにかしてから部屋に来い」
父に言われて、稲は腑に落ちないながら、しぶしぶと頷く。
※
「――なぜ私なのですか?」
その話は稲も知っていた。
家康が、真田の嫡男である信幸の嫁を徳川家からと考えているが、家康本人の娘を嫁がせることはできない。長女、次女も既に嫁いでおり、三女は年少。その為に重臣の娘を養女として信幸に嫁がせようとして家康がその嫁探しをしている、と稲も聞いていたが、自分には関係のないことだと聞き流していた。
信幸に似合いの年頃の娘など他にいる。
だから、父から縁談の話を聞いて、思わず笑った。ひとしきり笑った後、
「なぜ私なのですが?」
「わしから殿にお願いをした」
「えぇ」
稲は、思わず腰が浮きかかったが、父の視線にしぶしぶ座りなおす。
「あれは良い男だ。きっと稲も気に入る」
満足気に言う父に、稲の眉は歪む。
「私は、結婚などするつもりありません。」
稲の言葉に今度は、忠勝の眉が歪む。
「もっと父上のそばにいて、多くのことを教えていただきたいと思ってます」
「――」
忠勝は、稲の言葉に父としては嬉しさを感じるが、と思う。
自分の背を見て育ち、自分の教えを乞う娘が可愛くないわけではない。
父の目から見ればまだまだ危ういところばかり目がいってしまうが、武将としての腕はなかなかのものでもある。だから、まだ手元においていろいろ教えたいという気持ちがないわけではないが、やはり父親としては年相応の娘らしい幸せも持ってもらいたい。
そう思っていたところに見つけたのが信幸だ。
その落ち着いた若武者ぶりに忠勝が惚れた。稲の婿はこの男だと決めた。
「まだまだ父上に――」
「もう決まったことだ」
稲の気持ちなど関係ないものとばかりに忠勝が、遮れば稲はぐっと唇を閉ざすがすぐに、
「では、私から殿にお願いして参ります」
言い終わらないうちに腰を上げ、父の制する声など気にもとめず、部屋を出て行こうと障子戸を開いて、廊を走れば――。
稲は、ふと足を止める。男がふたりいたのだ。
男のうちひとりは、真田信幸。もうひとりはおそらく家臣。
稲に気付いた信幸は、家臣の男に何か言うと、その男は軽く頭を下げると行ってしまう。
「本多殿に用があり、使いを出したのですが、なかなか戻ってこなかったので様子を見に来ました」
「そう・・・ですか」
そう言う信幸に、先ほど見せた人を小馬鹿にしたような目などはなく、そこにいるのは穏やかそうな好ましい好青年。
あれは見間違いだったのか、と稲が思った時、
「私も、どうしても稲姫に、いえ、徳川から嫁が欲しいわけではありませんよ」
にこりと淡い笑みを浮かべて信幸が言う。
「――っ!!盗み聞き」
「するつもりもなく、つつぬけでした」
信幸は、穏やかな仕草で半目を伏せ、目線を稲の後方へと流す。
おそらく父の忠勝がいるのだろうと稲にも分かった。
そして、短い沈黙の後、
「我が父も大人気なく拗ねてましてね。奥平家や北条家には実の娘をくれてやって、真田には養女か、と。まぁ、私としてはどちらでも構わないと思ってましたが」
じろじろと遠慮なく稲を見渡してから、
「弓腰姫のごとく弓を持って戦場を駆けるだけではなく、普段から泥だらけで駈けずり回るような女性ではねぇ・・・」
「あなたという人は、失礼な――」
さすがに今は武家の娘らしい唐織の打掛姿の稲だが、思わず手にしていた扇を信幸に向けて突き向ければ、信幸にピシャリと払いのけれた。
一瞬の出来事だった。
舞のような優雅な手つきで手をすっ・・・と差し出したかと思った瞬間、その仕草からは考えられない俊敏な動きで稲の扇が払いのけられた。
扇が頼りない音をたてて、廊に落ちていく。
「失礼はお互いさま。人に扇を向ける女が言える言葉ではない」
「――っ!」
稲は下唇を噛み締めて、ぐっと悔しさを堪える。
確かに普段の自分なら決してしないことをした。突然聞かされた結婚話。それも徳川を破った真田家の嫡男。
けれど、珍しく我を忘れてしまったことは恥ずべき行為だ。
下唇を噛み締めながら信幸を見れば、信幸はふと笑った。
そして、ふと瞼を伏せた。
その信幸の何気ない仕草に悔しさが遠のいた。代わりに不思議な静寂が体を支配した。それが何なのか分からず稲は、不安になる。
(あぁ、もう駄目だ)
戦場でも怪我を負うことも、日常でも身体に痛みを感じるようなことがない忠勝が、頭痛を覚えた。
家康に信幸の嫁は稲をと懇願し、了承を得て、その信幸を無理に屋敷に連れて来たのが間違いだった。稲をきちんと説き伏せてからにすれば、と後悔しながらふたりを見ていたが、稲はくるりと視線を変えて、落ちた扇を拾うと忠勝に駆け寄ってきた。
そして、
「嫁ぎます!真田家に嫁ぎます!」
戦場に挑むかの気迫で似合わぬ言葉を口にする。驚く父に稲は、
「あの方に私を妻にして良かった、と絶対に思わせてみせますから!」
そう宣言するかのように声を張り上げて、脇をすり抜けていく。
戸惑いつつ忠勝が信幸を見れば、そこには心底迷惑そうな顔をした青年がいた。
絹糸のように大人しくなったので、その隙を狙って、用を片付けるのに外に出たのはいいが、足元はぐちゃぐちゃで、稲は溜息を落とす。
あぁ、もうと苛立ちを声に出した途端、雨粒が頬に触れ、再び降り出した。
もう屋敷まで走ろう。鍛錬にもなる。
そう自分に言い聞かせて屋敷まで走って帰れば。
(――・・・?)
屋敷門前が慌しい。来客の様子なのだ。
裏口からこっそり入ろうと踵を返そうとした時、驚いた声で名前を呼ばれた。
ビクリと体を震わせ、こっそりと振り返れば父の姿がある。
そして、その隣に家臣でもない男の姿。
(誰?)
見たことがあるようなないような。
記憶を探ってみて、あぁ、あれは三方ヶ原や上田での戦いで会った・・・。
真田幸村?いや、違う。似ているけれど、違う。
思わずその男をじっと見ていると、男も稲の視線に気付いたらしく稲を見た。
あれは――。
ホウセンカの種が弾けるように稲は誰なのか分かった。
真田信幸だ。
上田城を攻めた時に、遭遇している。
その真田信幸が主君である家康の元に出仕しているとは父から聞いていた。
稲は自然とその男を睨みつけていた。
上田では負けた。
稲たちの兵を前に信幸は一旦兵を引き、こちらは一瞬気を抜いた隙にまた攻めてきた。上田での徳川と真田の戦いでは、昌幸と幸村の活躍ばかりが目を引くが、信幸は地味に陰険に徳川軍を翻弄し、その兵力を削いでいった。
強いのではなく戦を功名に動かす男だ、と徳川では評価されていた。
思い出して悔しくなり、ついつい稲の中に渦巻くそれが、稲に信幸を睨ませる。
そんな稲の視線を信幸は、さらりと受け流し、稲の父である忠勝に何か言っており、忠勝が申し訳なさそうにしている。
なんだか嫌な男、と稲は思った。
稲を見た時の目が小馬鹿にしている風だった。
家臣に促されるように信幸は、屋敷の中へと入っていく。
それを見ていた稲だったが、男の姿が見えなくなるのを待って父に駆け寄り、
「あれは真田信幸ですよね?」
そう尋ねるが父は答えず、
「その姿はどうしたんだ?!」
と珍しく苛立った声を上げた。
言われて稲は、自分がずぶ濡れの泥だらけだと改めて気付き笑う。
「ちょっと出ていたら雨に降られました」
「――なんだってこんな日に・・・」
珍しくぐちぐちと説教してくるので、稲は普段ならこんなことに文句を言わないのにと小首を傾げる。
「いいから早くその薄汚い姿をどうにかしてから部屋に来い」
父に言われて、稲は腑に落ちないながら、しぶしぶと頷く。
※
「――なぜ私なのですか?」
その話は稲も知っていた。
家康が、真田の嫡男である信幸の嫁を徳川家からと考えているが、家康本人の娘を嫁がせることはできない。長女、次女も既に嫁いでおり、三女は年少。その為に重臣の娘を養女として信幸に嫁がせようとして家康がその嫁探しをしている、と稲も聞いていたが、自分には関係のないことだと聞き流していた。
信幸に似合いの年頃の娘など他にいる。
だから、父から縁談の話を聞いて、思わず笑った。ひとしきり笑った後、
「なぜ私なのですが?」
「わしから殿にお願いをした」
「えぇ」
稲は、思わず腰が浮きかかったが、父の視線にしぶしぶ座りなおす。
「あれは良い男だ。きっと稲も気に入る」
満足気に言う父に、稲の眉は歪む。
「私は、結婚などするつもりありません。」
稲の言葉に今度は、忠勝の眉が歪む。
「もっと父上のそばにいて、多くのことを教えていただきたいと思ってます」
「――」
忠勝は、稲の言葉に父としては嬉しさを感じるが、と思う。
自分の背を見て育ち、自分の教えを乞う娘が可愛くないわけではない。
父の目から見ればまだまだ危ういところばかり目がいってしまうが、武将としての腕はなかなかのものでもある。だから、まだ手元においていろいろ教えたいという気持ちがないわけではないが、やはり父親としては年相応の娘らしい幸せも持ってもらいたい。
そう思っていたところに見つけたのが信幸だ。
その落ち着いた若武者ぶりに忠勝が惚れた。稲の婿はこの男だと決めた。
「まだまだ父上に――」
「もう決まったことだ」
稲の気持ちなど関係ないものとばかりに忠勝が、遮れば稲はぐっと唇を閉ざすがすぐに、
「では、私から殿にお願いして参ります」
言い終わらないうちに腰を上げ、父の制する声など気にもとめず、部屋を出て行こうと障子戸を開いて、廊を走れば――。
稲は、ふと足を止める。男がふたりいたのだ。
男のうちひとりは、真田信幸。もうひとりはおそらく家臣。
稲に気付いた信幸は、家臣の男に何か言うと、その男は軽く頭を下げると行ってしまう。
「本多殿に用があり、使いを出したのですが、なかなか戻ってこなかったので様子を見に来ました」
「そう・・・ですか」
そう言う信幸に、先ほど見せた人を小馬鹿にしたような目などはなく、そこにいるのは穏やかそうな好ましい好青年。
あれは見間違いだったのか、と稲が思った時、
「私も、どうしても稲姫に、いえ、徳川から嫁が欲しいわけではありませんよ」
にこりと淡い笑みを浮かべて信幸が言う。
「――っ!!盗み聞き」
「するつもりもなく、つつぬけでした」
信幸は、穏やかな仕草で半目を伏せ、目線を稲の後方へと流す。
おそらく父の忠勝がいるのだろうと稲にも分かった。
そして、短い沈黙の後、
「我が父も大人気なく拗ねてましてね。奥平家や北条家には実の娘をくれてやって、真田には養女か、と。まぁ、私としてはどちらでも構わないと思ってましたが」
じろじろと遠慮なく稲を見渡してから、
「弓腰姫のごとく弓を持って戦場を駆けるだけではなく、普段から泥だらけで駈けずり回るような女性ではねぇ・・・」
「あなたという人は、失礼な――」
さすがに今は武家の娘らしい唐織の打掛姿の稲だが、思わず手にしていた扇を信幸に向けて突き向ければ、信幸にピシャリと払いのけれた。
一瞬の出来事だった。
舞のような優雅な手つきで手をすっ・・・と差し出したかと思った瞬間、その仕草からは考えられない俊敏な動きで稲の扇が払いのけられた。
扇が頼りない音をたてて、廊に落ちていく。
「失礼はお互いさま。人に扇を向ける女が言える言葉ではない」
「――っ!」
稲は下唇を噛み締めて、ぐっと悔しさを堪える。
確かに普段の自分なら決してしないことをした。突然聞かされた結婚話。それも徳川を破った真田家の嫡男。
けれど、珍しく我を忘れてしまったことは恥ずべき行為だ。
下唇を噛み締めながら信幸を見れば、信幸はふと笑った。
そして、ふと瞼を伏せた。
その信幸の何気ない仕草に悔しさが遠のいた。代わりに不思議な静寂が体を支配した。それが何なのか分からず稲は、不安になる。
(あぁ、もう駄目だ)
戦場でも怪我を負うことも、日常でも身体に痛みを感じるようなことがない忠勝が、頭痛を覚えた。
家康に信幸の嫁は稲をと懇願し、了承を得て、その信幸を無理に屋敷に連れて来たのが間違いだった。稲をきちんと説き伏せてからにすれば、と後悔しながらふたりを見ていたが、稲はくるりと視線を変えて、落ちた扇を拾うと忠勝に駆け寄ってきた。
そして、
「嫁ぎます!真田家に嫁ぎます!」
戦場に挑むかの気迫で似合わぬ言葉を口にする。驚く父に稲は、
「あの方に私を妻にして良かった、と絶対に思わせてみせますから!」
そう宣言するかのように声を張り上げて、脇をすり抜けていく。
戸惑いつつ忠勝が信幸を見れば、そこには心底迷惑そうな顔をした青年がいた。
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