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2024/11
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結婚してみれば信幸は、良き夫だ。多分。
多分、というのは他に比べようがないから、多分がついてしまうと稲は考えている。
「それなり」に優しいし、「それなり」に気を使ってくれるし――。
それに、と思い出して稲は、自分の頬が赤く染まるのが分かった。
武芸以外に、あのようなすばらしいことがあろうとは結婚前の稲には、思いもしなかった。知識としてだけ知っていた頃は、なぜ子供を得るためにあのような不埒なことをしなければいけないのか、と思っていた。
なのに・・・。
赤くなった顔を誤魔化すかのように、誰もいないのに咳払いをしてみる。
けれど――。
信幸は、自分をどう思っているのだろうか。
それが分からなくて稲は怖い。
少しでも自分を妻として良かった、と思ってくれていればいいのだけれど・・・。


褥でひとりしばらく待ったが、夜は更けていくばかり。
今晩もいらっしゃらない。
まぁ、お忙しいから仕方もない。ひとりでゆっくり休みたいのでしょう。
自分にそう言い訳をして、ひとり横になる。
事実、信幸は忙しい。
北条家に明け渡されていた沼田が、北条滅亡後、真田領として復帰し、信幸が沼田城主となった。その事後処理で慌しくしている。

「あの方に私を妻にして良かった、と絶対に思わせてみせますから!」

そう言って嫁いだからには、何か手伝いをと思っても、自分にできるのは信幸の手をわずらわせないということだけ。



明け方。
寝たようなずっと起きていたような。
そんなうつらうつらした感覚で夜を過ごしていた稲だったが、ふと眠りが解けた。
廊に人の気配を感じたので、障子戸を開いてみれば、

「信幸さま」
「起こしてしまいましたか?」
「こんな早くにどこかに――」

早朝なのに、信幸の身なりはきちんと整えられている。
どこかに行かれるのですか、と言いかけて、帰ってきたのかもしれないと考え直して稲は口を紡ぐ。他の女のところに行っていたとか――・・・。
稲が何をいいかけて止めたのかすぐに分かったらしい信幸は、

「他に女はいませんよ。今のところは――」
「今のところは?!」
「先は分かりませんからね」

さらりとそう言うと、廊を歩いていってしまうので、

「どちらに?」

と問いかければ、信幸はゆっくりと振り、

「遠乗りです」
「こんな早くにですか?」
「こんな時間しか自由に動けない」

確かにそうだ、と納得した稲に、

「一緒に行きますか?」

信幸はそう言う。






樹木に覆われた山路をうねりながら上がっている。
早朝の清(さ)やかな空気に、陽射しを浴びた草木、涼しい風が吹き抜ける道を、馬で駆けていく。その山路を行けば、樹木が急に切れ、崖が現れる。
その手前で馬を止めて、

「気をつけて」

信幸に言われて稲は頷く。
馬から落ちた信幸は、崖下の景色を眺めている。沼田の城下が見渡せる。
稲も馬を下りて、信幸の背をじっと見つめた。景色を眺めるよりも稲にとっては楽しい。
けれど、その楽しみは信幸が振り返ったので終わってしまう。

「そこでは見えないでしょう?」

信幸が手を差し出してくれるが、稲は躊躇する。
えっ、と困惑した稲に信幸は、

「もしか高いところが苦手とかですか?」
「――・・・駄目ですか?」
「いいえ。ただ意外だっただけです」

貴方にも苦手なものがあるのですねぇ、と信幸が言うので、

「信幸さまにはないのですか?!」
「そうですね・・・。しいていえば、稲ですかね」
「――っ!」

むっとした稲は静かに信幸に近づけば、

「怖くのないですか?」
「怖くありません」

平然として見せたが、決して下を見ようとはしない。
下さえ見なければ平気だと澄ましていた稲だったが、

「あっ、ムカデ」

と信幸が言えば瞬間、稲は驚いて、足元だけではなく崖下にも目がいってしまったらしく、思わず足元をすくわれ、そのままよろけて尻餅をついてしまう。
それを信幸が声をあげて笑った。
足元にムカデなどいなかった。からかわれたのだと思った稲は、キッと信幸を睨みつける。そんな稲の腕を掴んで信幸は立ち上がらせる。

「あぁ、初めて見かけた時のように泥だらけだ」
「初めてはあの時ではありませんよ。戦場で顔を合わせています」
「そうでしたっけ?」

覚えていないらしい。
信幸は稲についた泥を払ってやりながら、その手を握り、崖下が見えなくなる場所まで導いてやる。

「高いところは苦手とはねぇ・・・」

心底苦手そうにまた言うので、稲はむくれる。

「苦手ではなく怖いだけです」
「同じことでしょう」
「怖いです」
「すみませんでした」

帰りましょう、と信幸が手を引っ張るので、稲は首を振る。
不思議そうに自分を見てくる信幸に、

「怖いです」

稲は同じことを再び言うと、ぎゅっと手を強く握り返してくる。
そんなに怖かったのか、と信幸は驚きながらそっと妻を抱きしめてやる。
その体温に身を預けながら、稲はそっと瞼を閉じる。
この体温を感じるのは久しぶりのこと。
怖かった。
幾晩も信幸が顔を見せないと怖い。けれど、それをどう伝えていいのかを知らない。

「――稲?」
「もう・・・こうしていれば怖くありません」

だから、もう少しだけ――ぎゅっと信幸にしがみつく。
そんな妻を、信幸も少し力をこめて抱きしめてやる。



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