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2024/11
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男がいた。こちらを見ていた。
いや、視線はこちらに向けられているけれど、自分よりももっと奥を見ているようだった。
どこかで見たことがある顔だな、と思った。
初めてみる顔だな、とも思った。
だから気になった。

「あれは、誰ですか?」

父に問いかければ、真田信幸殿だと言われた。
あぁ、あれが殿に出仕してきた真田家の嫡男ですか、と言えば、父は不思議に満足気な色をたたえた目で、稲を見た。
それが稲が、真田信幸、という男を心のうちに留めた瞬間だった。




その知らせに稲は、まずは重い息を吐いていた。
それから、しばらく唇を閉ざした。無の顔で、そっと視線を開かれた障子戸の奥へと向ける。

(――上田の義父上と、幸村だけ・・・)

上杉討伐の命に、途中夫と合流して会津に向かうはずだったふたりが、沼田城に来たという知らせを受けた。
いろいろと思いを巡らせつつ、ゆっくりと立ち上がれば、ぱたぱたと小さな足音が廊から響いてきた。ひょこっと顔を出したのは息子、孫六郎。寝ていたはずなのに起きてしまったらしい。その孫六郎を追ってきた侍女の手を振り解いて、稲の足に絡み付いていく。

「祖父上と叔父上が来てるの?」

嬉しそうに言う。そんな息子の頭を撫でてやりながら、

「明日ね。もう今夜は遅いから、明日」

と言えば、駄々をこねようとした一瞬を見せた孫六郎だったが母の表情が重く翳っていることに子供ながら気付いたのか、小さく頷いた。稲はいい子ねと褒めてやる。
それから、帯を解き、久しぶりに戦装束を身に着ける。



城壁に上り、まずは義父を、それから、義弟を見下ろした。
少数の兵を連れた義父は、まるで近くに来たから寄ってみた、という気軽さで稲を見上げて、頬を揺らす。

「孫の顔を見に寄った」

そう言う義父から、するり視線を義弟に滑らせれば、その視線に気付いたらしい幸村が、稲ににこりと微笑を頬に浮かべる。その瞬間、稲は確信した。

――嘘だ。

義弟は相変わらず嘘が下手だ。
上杉討伐に向かう途中、情勢が変わったのだろう。
そして、親子、兄弟でありながら袂を別ったのだろう。そして、沼田に寄ったのは乗っ取る為。
詳しい事情は分からない。
けれど、城内に決して入れてはいけないと確信した。
だから、声を張り上げた。

「城主許可なく、門を開くことは出来ませぬ!」

瞬間、幸村の目が鈍く光ったのを稲は見逃さない。
あからさまに不快そうな顔をした義父と、怒っているのか悲しんでいるのか、どちらとも取れる表情を浮かべる義弟を稲は交互に見やる。

「お引取り下さい!」

稲は手にしていた弓を構える。
威嚇のつもりだが、これで退かなければ――。
ギリギリという弓の音と同時に、稲の胸も軋む。

「孫に――、会いたいのは本音だ」

義父の言葉に、心の底はざらつく。
本当の目的は城の乗っ取り。けれど、孫に会いたいのも本音。相克にも似たものをふたつの思いが昌幸の中にあるのは事実だろう。

「明日、正覚寺にて」

短く稲は告げる。
沈黙。やがて、無言のまま、去っていく。
一度、幸村が振り返った。
弓を構えた姿勢のまま、稲は義弟を見据えた。目が合った。

(――あの時と同じ目をしている)

稲は、義弟を憐れむ。


幸村が、沼田城を訪れた時。
肥後名護屋に向かう経路などの話し合いが終わった後。
縁に腰掛けて、月見酒を楽しむ夫と義弟にしばし酌をした後、稲は下がる。
久しぶりの兄弟水入らずで、とにこやかに言って下がったものの、どうにもこうにも居心地が悪かった。邪険にされたわけでもなく、稲にも分かる話題を振ってくれたりする兄弟だが、どこか入り込めない空気がある。
だから、気を使った振りをして下がった。
聞こえてくる話し声に、ふと振り返れば、幸村が信幸を見ていた。
それが稲には、なぜか引っ掛かった。
久しぶりに会った兄弟が、水入らずで酒を飲んでいる。そんな微笑ましい風景。
なのに、義弟はとても嬉しそうで喜び楽しんでいるようでいて、不思議と切なく、苦しそうにも見える。
稲は首を傾げる。
けれど、何事もなかったかのように下がり、酒が尽きたであろう頃に再度兄弟の許へ向かえば。
そこに信幸の姿はなかった。厠にも行ってるのだろうか。
稲に気付いた幸村が振り返った。
瞬間、稲は息を呑む。幸村に睨まれた。勘違いではなく事実睨まれた。
酒が本音を語らせているのだろうか。
真田は徳川方の嫁を歓迎していないのか、と稲が思った時、

「義姉上は、いいですね。羨ましい」

ぽつり幸村が言ったか思えば、笑った。
笑ったかと思えば、また、睨んで、いや、羨むように見てきた。
稲が立ち尽くしてれば、信幸が戻ってきた。

「どうした?」
「飲み過ぎたようです」

幸村が笑った。笑いながら信幸の袖を掴む。

「もっと話したいことがあったのですが、酒のせいで忘れました」
「お前は、酒に強いのか弱いのか分からない奴だな」

信幸も笑う。床の準備をさせましょう、と稲は言い残して去る。
侍女に指示しつつ、胸元を手で抑える。

(もしかして――、でも、兄弟で・・・)

男色など珍しくない。幸村がそうだとしても、それ個人の自由だ。
けれど、相手が兄ならば・・・?
首を振って、床の準備が出来たと伝えに行けば、縁で幸村は横たわり、その脇に座った兄に話しかけている。掴んだ裾を離すことなく。
幸村は、兄弟ふたりきりのこの時間を、この永遠の中から切り取られた一瞬として、あたたかく胸に抱きしめているのだろう。そう思った。
そして、同情した。憐れみの気持ちがまず浮かんだ。
稲が羨んだ兄弟の繋がりが、幸村を苦しめている。


そして、今。
去っていく義弟は、

「義姉上は、いいですね。羨ましい」

そう言った時と同じ目をしていた。



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