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私を止めてくださったのが、義姉上でよかった。

思うより早く言葉が出た。素直な気持ちだった。
短く振り返り、稲を見る。

一度は成った和議も壊れ、徳川と豊臣の二度目の戦。
家康の本陣まで幸村は来た。家康のその姿を見えた瞬間、矢鳴りがした。
矢を射たのは稲。
そして、幸村の槍と稲の矢が音を立て、交差する。
空を切り裂くように幸村の槍は唸る。その刃風が稲の体を揺らす。稲も弓で応戦したがやがて倒れる。
血に伏した稲の首元に槍が当てられる。
振り向く稲の顔に、敵に追い詰められ恐怖する色は浮かんでいない。
あるのは、同情。憐れみ。
同情をたっぷりと乗せた睫毛の奥の瞳が、幸村を見る。
そういえば、義姉はいつもこんな顔をして自分を見ていた、と幸村は思い、懐かしさすら感じた。
じりじりと家康を守る兵の気配を感じて、視線をそちらに向け、幸村は槍を引く。

(もう――、これで十分だ)

ここを離れよう、と幸村はゆっくりと足を動かす。

「幸村ー!」

稲の叫び声。

「私を止めてくださったのが、義姉上でよかった。」

ほんの一瞬、ひとつ息をするより短く振り返り、稲に言う。
素直な気持ちだった。

「天下、あなたこそ日本一の兵と褒めそやしてします!もののふの意地はたちました!もはや、死ぬには及びません!どうか!!」
「どうか、お健やかに、義姉上」

すぐに怒号が響いた。幸村は走りだす。
追い詰めたが、今度は追い詰められる。次第に迫り来る怒号が、やけに華やかな賑わいにすら聞こえ、それに惹かれるように心は高揚する。

(これが私の道です)

胸に兄の姿を思い浮かべる。

(これが兄上が導いた、私の道です)

「お前が私の手を取らなかったあの時から、お前は本当の意味でお前の道をいくことが出来るようになったのだろう」
「何をしても構わない。ただ、いてくれさえすればいい。」

走りながら、見えない何かを幸村は見据える。見えない何か――記憶の底にいる兄の姿を現に呼び出す。
その兄が、ふわりと幸村に手を差し出す。今こそ、あの手を取る時か・・・、そう思った瞬間、霧のようなものが舞い上がる。

「――お前は死を選ぶのではないかと思ったから、そうでないと分かって安堵した」

兄の声が、脳裏にこだました。霧の彼方に見える光のように。

「兄上・・・」

無意識の内で、幸村の唇が兄を呼ぶ。
そこで初めて口内も喉もカラカラに渇いていることに気付く。気付けば苦しくなり、息が上がる。上がった息を整えようといったん足を止める。地に槍を突き刺す。

(もうこれは必要ない)

もう「私の道」は十分だ。
稲の言った通り日本一の兵としてもののふの意地はたった。後世まで名は残るだろう。
その為なら兄は「何をしてもいい」と言った。
自分は家康を追い詰めた。その命を奪えば大変なことになっただろうが、兄には稲が止めるだろうことは分かっていたはずだ。世の混乱を信之は望まないだろう。
別々の道をいくことになった兄弟。
先のない道を選んだ弟に兄は「もののふとして自分の道を行き、そして、その先で死ね」と。
死を望んでいないことに安堵したと言いつつ、その言葉でじりじりと追い詰める。
兄は、平素から意識を実に隙なくあたりへ走らせ、すべてを的確に読み取っている。けれど、それは幼い頃から共にいる兄弟だから分かることだと幸村は自負していた。
だからこそ、分かる。
兄は、自分の行くべき道の、その時期をじりじりと待っていたことだろう。
あぁ、と唸りながら幸村は瞼を細めた。
けれど、分からない。「ただ、いてくれさえすればいい」の意味。
それを考えた瞬間、霧の向こうに手が見えた。誘うように指先が揺れる。
ほんの少し手を伸ばせば触れられるところにあった。触れたい、と願った。触れるべきだ、あれに触れるべきだ。腕を伸ばしたつもりだった。思い切り遠くへ伸ばしたつもりだった。ところがその手が見えなくなった。いや、手だけではなく自分の体すら見えなくなっていた。ただ、心だけが白く不思議な空間に浮かび、あの手を掴みたいと願っている。
「――私が欲しくないのか?」と肩を掴んだ手。
まるで舞うようにゆっくりと優雅で、思わず掴み取りたくなる衝動をぐっと堪えた手。
あの日、掴まなかった手。
触れたいのに、取り戻したいのに、見えなくなった手。

私は狂ったのか?

幸村は振り返る。そこには先ほど突き刺した槍がぽつんと浮かんでいる。
けれど、戦場なのに、誰の姿も怒号も、槍や弓、刀の交わる音すら聞こえない。

ここはこの世とあの世の境界線?

「あぁでも、もうどうでもいい」

幸村は、ゆらり微笑んだ。
ただ駒として自分が欲しかったから、代わりに褒美として自らを与えるとばかりに言った「兄弟という倫理的な問題はあるが、男同士、子ができるわけでもないのだから、別にいいさ」という言葉。
ちくりと胸の中に何かが刺さったあの言葉。

けれど、それも――。

今はただあの日、誘うように揺れた指先の向こう側にあるもの。それを胸の中に夢を広げる。
哀しく甘い切ない涙がしたたり落ちた――ような気がした。
けれど、白かった視界に、紅色がぼんやりと浮かんだ。


したたり落ちたものは血、だったのかもしれない。



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