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初めて「真田信幸」という男を心に留めた瞬間と同じだ。
視線はこちらに向けられているけれど、自分よりももっと奥を見ている。
長い時間を夫婦として過ごした、よく知っている夫の顔。
なのに、知らない男のようにも見える。
稲は、そう思いつつ、信之を見つめた。
妻の視線を信之は、退けはしないが受けとめもしない。
信之は、戦場に残されていた幸村の槍を膝の上に置き、どこかを見ている。
幸村と槍を合わせたこと。幸村の言葉を伝えた。
「幸村は、どこかで生きている。そんな気がしてなりません。だから、生きて真田の家を守らないといけないと思いました。帰ってきた時に、笑顔で迎えられるように・・・」
そこまで言って稲は、詭弁でしかない、と言葉を止めた。
それらに、信之が返したのは沈黙。
けれど、正直稲はホッとしていた。話しているうちに、心の底まで降り立って考えてみたくなっていた。
「幸村は、もう死んでいるも同然です」と信之は、以前言った。
戦場で久しぶりに会った弟は、信之の言葉の通りに見えたような、違うような。戦場で生き、けれど、逝く場所を求めていたのだろうか。
今のところ幸村の生死は不明。
生きているような気がするのは、ただの願望か。
夫との間に目に見えぬ透明な厚い壁を感じさせた言葉を、否定したいだけなのか。
「槍だけが、残されていたのですよね?」
今まで心を閉ざし、瞑想の中にいたように見えていた夫の言葉に、稲はハッとして頷く。
「槍も必要ない、と捨てたか」
信之は、忍び笑うように頬を揺らす。稲の目に、信之の笑いが歪んで映る。
が、やがて、それも止み、
「死んだか」
信之は、短く言った。
「死んだ・・・」
稲は、夫の言葉を繰り返す。
「死んで――、幸村は私だけのものになった」
夫の言葉に稲は、言葉は詰まった。
聞き間違い、かと思った。ともすれば聞き逃してしないそうなほど小さな声だった。
軽い静寂が緊張感を促す。
信之は、何かを隠すように睫毛に縁取られた瞼を伏せた。
途端、稲の中に嫉妬と不安が湧き上がった。ギリリと胸が締め付けられる。
幸村が、一方的に信之を思慕しているだけだと思っていた。けれど、違う、らしい。
もしや、信之の方が――。
下唇を噛み締める。瞳のかたちも心の揺れるさまに合わせて歪む。
やがて閉じられていた信之の瞼が、ゆっくりと開かれる。
その視線の先にいるのは――記憶の中の弟の姿。きっと生きている頃と同じように確かに、あざやかに胸のうちにいるのだろう。
そして、今自分は、
「義姉上は、いいですね。羨ましい」
と幸村が言った時と同じ顔をしていることだろうと稲は思う。
羨ましい、と思った。幸村が羨ましいと思った。
「離縁されてしまえば私は赤の他人ですよ。けれど、兄弟の縁といいますか、繋がりは生涯消えることはないではありませんか」
かつて言った言葉。
兄弟の繋がり。羨んだ繋がり。切れることのない繋がり。報われるはずもない恋をする義弟を憐れんでいた。
なのに。
胸が激しく叩かれる。手が震えた。震える手を信之に伸ばす。
「稲?」
伸ばされた稲の手を、信之は右の手で握る。
最初は軽く、けれど、震えていることに気付いたのか強く握られる。
見ている方向が違う夫婦だと稲は思っていた。
互いに背を向けあいながら、逆方向を見ている夫婦。互いに守るべきものを守るために互いに背を向けながら、違う方向を見ながらも、互いの手は離さない。
背を向けられるのは、そこに確かな信頼があるから。
けれど、もう――稲は短く息を吐く。
「これからは――私も一緒に同じところを」
その言葉を信之が、どう思ったのかは分からない。
ただ、右の手は稲の手を強く握っていた。左の手で、膝に置かれていた幸村の槍をそっと脇に置く。
抱きしめようとして、逆に抱きしめられた。
考えるよりも、触れられる。
稲は、脇に置かれた幸村の槍を一瞥して、強く握り返される夫の手と体のぬくもりに、唇の端に笑みを浮かべる。
死んでしまえば終わりだ。
生きてさえいれば、このぬくもりに触れられる。ともに同じ方向を見て生きていける。
稲は、ふふふっと幸村の槍に微笑む。
<終わり>
【戻る】【前】
視線はこちらに向けられているけれど、自分よりももっと奥を見ている。
長い時間を夫婦として過ごした、よく知っている夫の顔。
なのに、知らない男のようにも見える。
稲は、そう思いつつ、信之を見つめた。
妻の視線を信之は、退けはしないが受けとめもしない。
信之は、戦場に残されていた幸村の槍を膝の上に置き、どこかを見ている。
幸村と槍を合わせたこと。幸村の言葉を伝えた。
「幸村は、どこかで生きている。そんな気がしてなりません。だから、生きて真田の家を守らないといけないと思いました。帰ってきた時に、笑顔で迎えられるように・・・」
そこまで言って稲は、詭弁でしかない、と言葉を止めた。
それらに、信之が返したのは沈黙。
けれど、正直稲はホッとしていた。話しているうちに、心の底まで降り立って考えてみたくなっていた。
「幸村は、もう死んでいるも同然です」と信之は、以前言った。
戦場で久しぶりに会った弟は、信之の言葉の通りに見えたような、違うような。戦場で生き、けれど、逝く場所を求めていたのだろうか。
今のところ幸村の生死は不明。
生きているような気がするのは、ただの願望か。
夫との間に目に見えぬ透明な厚い壁を感じさせた言葉を、否定したいだけなのか。
「槍だけが、残されていたのですよね?」
今まで心を閉ざし、瞑想の中にいたように見えていた夫の言葉に、稲はハッとして頷く。
「槍も必要ない、と捨てたか」
信之は、忍び笑うように頬を揺らす。稲の目に、信之の笑いが歪んで映る。
が、やがて、それも止み、
「死んだか」
信之は、短く言った。
「死んだ・・・」
稲は、夫の言葉を繰り返す。
「死んで――、幸村は私だけのものになった」
夫の言葉に稲は、言葉は詰まった。
聞き間違い、かと思った。ともすれば聞き逃してしないそうなほど小さな声だった。
軽い静寂が緊張感を促す。
信之は、何かを隠すように睫毛に縁取られた瞼を伏せた。
途端、稲の中に嫉妬と不安が湧き上がった。ギリリと胸が締め付けられる。
幸村が、一方的に信之を思慕しているだけだと思っていた。けれど、違う、らしい。
もしや、信之の方が――。
下唇を噛み締める。瞳のかたちも心の揺れるさまに合わせて歪む。
やがて閉じられていた信之の瞼が、ゆっくりと開かれる。
その視線の先にいるのは――記憶の中の弟の姿。きっと生きている頃と同じように確かに、あざやかに胸のうちにいるのだろう。
そして、今自分は、
「義姉上は、いいですね。羨ましい」
と幸村が言った時と同じ顔をしていることだろうと稲は思う。
羨ましい、と思った。幸村が羨ましいと思った。
「離縁されてしまえば私は赤の他人ですよ。けれど、兄弟の縁といいますか、繋がりは生涯消えることはないではありませんか」
かつて言った言葉。
兄弟の繋がり。羨んだ繋がり。切れることのない繋がり。報われるはずもない恋をする義弟を憐れんでいた。
なのに。
胸が激しく叩かれる。手が震えた。震える手を信之に伸ばす。
「稲?」
伸ばされた稲の手を、信之は右の手で握る。
最初は軽く、けれど、震えていることに気付いたのか強く握られる。
見ている方向が違う夫婦だと稲は思っていた。
互いに背を向けあいながら、逆方向を見ている夫婦。互いに守るべきものを守るために互いに背を向けながら、違う方向を見ながらも、互いの手は離さない。
背を向けられるのは、そこに確かな信頼があるから。
けれど、もう――稲は短く息を吐く。
「これからは――私も一緒に同じところを」
その言葉を信之が、どう思ったのかは分からない。
ただ、右の手は稲の手を強く握っていた。左の手で、膝に置かれていた幸村の槍をそっと脇に置く。
抱きしめようとして、逆に抱きしめられた。
考えるよりも、触れられる。
稲は、脇に置かれた幸村の槍を一瞥して、強く握り返される夫の手と体のぬくもりに、唇の端に笑みを浮かべる。
死んでしまえば終わりだ。
生きてさえいれば、このぬくもりに触れられる。ともに同じ方向を見て生きていける。
稲は、ふふふっと幸村の槍に微笑む。
<終わり>
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