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――こんなに軽かったか。
初めて誾千代に会った時の思い出が、宗茂の胸の中で渦を巻いた。
熱中症になった誾千代を、抱き上げたはいいが、よろけ、供の者が自分から手から誾千代を引き取り、自尊心が、傷つけられた、あの時。
見た目軽そうな少女を、抱き上げられない自分の不甲斐なさに、傷つき、もっともっと体を鍛えなければならないと思ったのは遠い昔のこと。
今、抱き上げて馬に乗せた誾千代は、軽かった。
驚くほどに軽かった。こんなにも誾千代は軽かったのか。
こんな軽い体で、戦場を駆け抜けていたのか。それは衝撃にも似た、驚きだった。
あぁ、本当に俺は誾千代のことを知らないのだな、と宗茂は、ふっと苦々しい思いに胸を突かれる。
「何を!」
宗茂のそれとは違う驚きを、縁取った誾千代の瞳を、宗茂は見る。
肝のすわった、ふてぶてしい――にあるのはいつも人を睨んでいるような、妙な力と気持ちを落ち着かせないものにする、 艶を持つ黒い目が、そこにある。
初めて真っ直ぐに見つめられた時、怯んだ。
情けないことに、それからずっと、この瞳に怯みっぱなしで、それでも、捕えられ続けてきた。
そして、互いに互いの心のうちを理解できずに、時間だけが流れた。
が、その過ぎ去ってしまった時間を惜しむにも、今は時間がないらしい。
「行け」
宗茂が、言う。
宗茂がついた西軍は杭瀬川の戦いで勝利を収めたが、関ヶ原における決戦で 家康率いる敵主力部隊と 衝突するも敗北。誾千代もまた西軍についていた。部隊は壊滅したが、誾千代もまた九州へ逃げ延び、しかし、 敵の追撃部隊に追いつかれ、そこでふたりは合流した。互いに互いの存在に気付いたのは同時。
「お前、関ヶ原で果てたのでは――・・・」
そんな誤報があったのか、と宗茂は軽く笑った。
「黄泉から戻ってきたのさ。鬼の道案内で。誾千代が泣いているじゃないかと心配になってね」
「ば、馬鹿にするな!泣いてなどおらぬ!」
僅かな余裕があったのは、そこまで。
地に火矢が打ちかけられ、風が炎を舞い上げ地を舐め、這うように炎が舞い上がる。逃げ切れるか――と思うより早く、誾千代を馬に乗せていた。「行け!」と言えば、
「ふざけるな!立花の誇りが許さぬ!私も戦う」
泣いているんじゃないかと――と言ったのは戯言。
けれど、見れば頬に、濡れて乾いたような跡が一筋。ここだけ雨でも降ったのか、とからかおうとしたが、時間はない。
それでも、伝えたいこと。伝えなければならないことはある。
「そうだ、戦え。生きて。お前自身の為に」
ひとりの男として伝えた。立花家の当主でもない、ただひとりの男として。誾千代の夫として。
「――だが、お前は・・・」
「俺は死なない」
宗茂は、薄く笑みを浮かべつつ、敵の気配に神経を尖らせる。
じりじりとした敵の気配に宗茂は、誾千代の馬を走らせた。虚を突かれたらしい誾千代の一瞬の瞳。
走り去る誾千代を乗せた馬の姿が、どんどん小さくなっていく。
宗茂はひとり、敵に囲まれた今。
俺は死なない。
誾千代に告げた言葉が唇に浮かんだ。唇に張り付いたまま声にはならなかったが、宗茂の唇に浮かぶものは、燃えさかる炎の中に静かに溶け込んでいく。
唇に笑みが浮かんだ。宗茂は手をやり、それを拭った。
けれど、拭いきれずに残った。染み込んでしまったらしい。
炎を見つめ、敵を見据え――その先を見据える。
妻を逃す為に、自分が犠牲になる。宗茂は、くくくっと笑いそうになる。
「生憎俺は、そんな諦めのいい、物わかりのいい男じゃないんだ」
死ぬわけにはいかないからな。
逃した誾千代の瞳の中に、欠片を見つけた気がしたから。
自分が誾千代を思うように、誾千代も自分を思っている。それが目に宿っていた。
じりじりと敵の気配を、動きを感じ取り、全神経を集中させていると。
誾千代の声が聞こえた、気がした。
―――っ。
流石に驚きは、隠せなかった。
逃した誾千代が、馬を疾走させて戻ってきたのだ。空耳ではなかった。
突然舞い戻ってきた誾千代に、宗茂は言葉が出なかった。
そんな宗茂に、誾千代はキッと強く睨みつけてくる。
誾千代は震える足で宗茂に近づくと、その前でがくりと崩れるように折れるが、ひらり手を差し出してくる。条件反射のように、その手を握れば、温かい。
誾千代の体温すら、すっかり忘れていたらしい。
「お前は、いや、立花は――、自分のいいように動く戦屋の男が欲しいだけだ。夫ではない。夫婦になろうとも思っていない」
誾千代にそう言った時、伸ばしてきた手を自分は気づかず振りをした。
あの時、その手を取っていれば、この体温に触れていれば――一瞬の間にいろいろな想いが廻ったが。
「嫌だ。ふざけるな」
空を斬るような鋭い誾千代の叫び声に、宗茂はその瞳を覗き込む。
「貴様の命令など、聞けるか!立花は私ひとりじゃない・・・」
宗茂の手を掴む手が震えた。ガタガタと震えている。
あぁ、そうだな。何も知らないと思っていたが、知っていることもある、と宗茂は思う。
誾千代も自分と同じで諦めのいい、物わかりのいい人間ではない。
「お前を失うことなど、私が・・・!」
瞬間、強く抱き締めていた。
「勝つのだ、ふたりで。生きるのだ、ふたりで」
これは命令だ――。
誾千代の言葉に、宗茂は嬉しくなる。楽しくなる。
あぁ、愉快だ、と言えば誾千代は、どう反応するだろうか。
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初めて誾千代に会った時の思い出が、宗茂の胸の中で渦を巻いた。
熱中症になった誾千代を、抱き上げたはいいが、よろけ、供の者が自分から手から誾千代を引き取り、自尊心が、傷つけられた、あの時。
見た目軽そうな少女を、抱き上げられない自分の不甲斐なさに、傷つき、もっともっと体を鍛えなければならないと思ったのは遠い昔のこと。
今、抱き上げて馬に乗せた誾千代は、軽かった。
驚くほどに軽かった。こんなにも誾千代は軽かったのか。
こんな軽い体で、戦場を駆け抜けていたのか。それは衝撃にも似た、驚きだった。
あぁ、本当に俺は誾千代のことを知らないのだな、と宗茂は、ふっと苦々しい思いに胸を突かれる。
「何を!」
宗茂のそれとは違う驚きを、縁取った誾千代の瞳を、宗茂は見る。
肝のすわった、ふてぶてしい――にあるのはいつも人を睨んでいるような、妙な力と気持ちを落ち着かせないものにする、 艶を持つ黒い目が、そこにある。
初めて真っ直ぐに見つめられた時、怯んだ。
情けないことに、それからずっと、この瞳に怯みっぱなしで、それでも、捕えられ続けてきた。
そして、互いに互いの心のうちを理解できずに、時間だけが流れた。
が、その過ぎ去ってしまった時間を惜しむにも、今は時間がないらしい。
「行け」
宗茂が、言う。
宗茂がついた西軍は杭瀬川の戦いで勝利を収めたが、関ヶ原における決戦で 家康率いる敵主力部隊と 衝突するも敗北。誾千代もまた西軍についていた。部隊は壊滅したが、誾千代もまた九州へ逃げ延び、しかし、 敵の追撃部隊に追いつかれ、そこでふたりは合流した。互いに互いの存在に気付いたのは同時。
「お前、関ヶ原で果てたのでは――・・・」
そんな誤報があったのか、と宗茂は軽く笑った。
「黄泉から戻ってきたのさ。鬼の道案内で。誾千代が泣いているじゃないかと心配になってね」
「ば、馬鹿にするな!泣いてなどおらぬ!」
僅かな余裕があったのは、そこまで。
地に火矢が打ちかけられ、風が炎を舞い上げ地を舐め、這うように炎が舞い上がる。逃げ切れるか――と思うより早く、誾千代を馬に乗せていた。「行け!」と言えば、
「ふざけるな!立花の誇りが許さぬ!私も戦う」
泣いているんじゃないかと――と言ったのは戯言。
けれど、見れば頬に、濡れて乾いたような跡が一筋。ここだけ雨でも降ったのか、とからかおうとしたが、時間はない。
それでも、伝えたいこと。伝えなければならないことはある。
「そうだ、戦え。生きて。お前自身の為に」
ひとりの男として伝えた。立花家の当主でもない、ただひとりの男として。誾千代の夫として。
「――だが、お前は・・・」
「俺は死なない」
宗茂は、薄く笑みを浮かべつつ、敵の気配に神経を尖らせる。
じりじりとした敵の気配に宗茂は、誾千代の馬を走らせた。虚を突かれたらしい誾千代の一瞬の瞳。
走り去る誾千代を乗せた馬の姿が、どんどん小さくなっていく。
宗茂はひとり、敵に囲まれた今。
俺は死なない。
誾千代に告げた言葉が唇に浮かんだ。唇に張り付いたまま声にはならなかったが、宗茂の唇に浮かぶものは、燃えさかる炎の中に静かに溶け込んでいく。
唇に笑みが浮かんだ。宗茂は手をやり、それを拭った。
けれど、拭いきれずに残った。染み込んでしまったらしい。
炎を見つめ、敵を見据え――その先を見据える。
妻を逃す為に、自分が犠牲になる。宗茂は、くくくっと笑いそうになる。
「生憎俺は、そんな諦めのいい、物わかりのいい男じゃないんだ」
死ぬわけにはいかないからな。
逃した誾千代の瞳の中に、欠片を見つけた気がしたから。
自分が誾千代を思うように、誾千代も自分を思っている。それが目に宿っていた。
じりじりと敵の気配を、動きを感じ取り、全神経を集中させていると。
誾千代の声が聞こえた、気がした。
―――っ。
流石に驚きは、隠せなかった。
逃した誾千代が、馬を疾走させて戻ってきたのだ。空耳ではなかった。
突然舞い戻ってきた誾千代に、宗茂は言葉が出なかった。
そんな宗茂に、誾千代はキッと強く睨みつけてくる。
誾千代は震える足で宗茂に近づくと、その前でがくりと崩れるように折れるが、ひらり手を差し出してくる。条件反射のように、その手を握れば、温かい。
誾千代の体温すら、すっかり忘れていたらしい。
「お前は、いや、立花は――、自分のいいように動く戦屋の男が欲しいだけだ。夫ではない。夫婦になろうとも思っていない」
誾千代にそう言った時、伸ばしてきた手を自分は気づかず振りをした。
あの時、その手を取っていれば、この体温に触れていれば――一瞬の間にいろいろな想いが廻ったが。
「嫌だ。ふざけるな」
空を斬るような鋭い誾千代の叫び声に、宗茂はその瞳を覗き込む。
「貴様の命令など、聞けるか!立花は私ひとりじゃない・・・」
宗茂の手を掴む手が震えた。ガタガタと震えている。
あぁ、そうだな。何も知らないと思っていたが、知っていることもある、と宗茂は思う。
誾千代も自分と同じで諦めのいい、物わかりのいい人間ではない。
「お前を失うことなど、私が・・・!」
瞬間、強く抱き締めていた。
「勝つのだ、ふたりで。生きるのだ、ふたりで」
これは命令だ――。
誾千代の言葉に、宗茂は嬉しくなる。楽しくなる。
あぁ、愉快だ、と言えば誾千代は、どう反応するだろうか。
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