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2024/11
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「止めたのが――」

稲は、一度そこで言葉を区切り、心を区切る。

「止めたのが私で良かった、と幸村は言い、彼の去った先には、槍だけが残されてました」

ふと、その時の光景が胸に思い返され、胸が滲んだ。
大坂で起きた徳川と豊臣の戦。
真田家は、関ヶ原の頃と同じように、一族が二分して争うことになった。
豊臣についた義弟―幸村と稲は槍と弓を合わせた。
胸に滲んだ思いは、一瞬のうちに心細さと哀しさが入り混ざり、けれども、稲は雫が降るよりも先にそれらを散らし、夫―信之を見つめる。
静かに話を聞いていた信之は、一瞬だけ切ないほどに優しい視線をくれたが、言葉はない。
稲は、ひかえめな瞼の下から、夫を見つめ、言葉をかけてくれることを待つ。
が、信之の唇が開くことはない。
信之も、稲を見つめ返したが、それはほんの一瞬だけ。するりと稲から視線を滑らせる。
長い沈黙が続く。
溜息を洩らしたくなる気持ちを抑えて、稲はそっと瞬く。
袂を別ったとはいえ、幸村は弟。兄として生死不明の弟を、心配し憂う気持ちを考えれば――想像だけで稲は心が、胸が、震える。
仲の良い兄弟だった。
稲とて幸村とは良い義兄弟であったと思っている。
幸村を想えば――胸に浮かぶのは・・・。
きっと信之の胸中は、もっといろいろな想いが、思い出が複雑に渦巻いているだろう。
もう夜も更けた頃だ。
きっと今宵は、ひとりで静かに幸村を思いたいだろう。
もう下がろう、と手をついた時。

「貴方は、もう戻らないのではないかと思ってました」

信之が、そう言った。
言われた言葉の意味が分からず、稲は手をついたまま、一瞬動きが止まる。がすぐに抜けた意識を取り戻して、顔をゆっくりと上げれば、信之の視線とぶつかる。
目が真っ直ぐに合うと、信之は微笑のような嘲笑のような、どちらにも受け取るにも躊躇のいるものを滲ませている。
夫の言葉も、その頬に浮かぶものも稲には、何なのか分からない。
もう戻らないのではないかと思ってました。その言葉を紐解こうとして、眉根が歪む。

「それは、我々が豊臣に負け、戻ることが出来ないと思っていたということでしょうか?」

自然と尖った口調になった稲は、キッと夫を見据える。
すると、信之は緩く首を振り、ひと呼吸置いて、

「幸村と、どこかへ逃げ延びるのではないかと思っていた」

と、短く告げた。
稲の唇に、咄嗟に言葉はなかった。まずは夫の言葉の意味が再び分からずに、戸惑うばかり。そんな稲の視線に、信之はふっ・・・と頬を揺らし、視線を落とした。それは、まるで何事もなかったかのように。

「・・・信之さま・・・?」

呼びかけたものの、後に続く言葉が見つからないらしい妻から、信之は反らした視線のまま、

「貴方は、幸村が好きだったのでしょう?」






可哀想な人だ。
信之は、妻をそう思っていた。いや、思っている。
心に秘めた思いを抱えながら、長年、愛してもいない男の妻として、いや、それどころか愛する男の義姉として過ごしてきた。
稲の生真面目な性格を考えれば、感情と理性の間で苦しんだことだろう。
関ヶ原から、このたびの大坂での戦の間、真田家はいろいろなことがあった。激動の時代故、他家もいろいろあっただろうとは思うが、厄介ごとの多い家に、嫁いでしまったと思う気持ちが、ないわけはないだろう。
稲との縁談話が、真田家に持ち上がったとき、正直幸村にだと信之は思っていた。
自分には亡き叔父の娘、つまり従姉妹を妻に迎えていたし、武将としての知名度を考えれば幸村だ。徳川が欲しいと願うのは幸村だろう。そう考えていたが、蓋を開けてみれば、徳川が望んだのは自分。
互いに利害関係で結ばれた、よくある政略結婚。
が、しかし、稲と幸村は戦場で顔を合わせたことがあった。
それを信之は、幸村から聞いた。その時の幸村の目の端が、ちらりと揺れていた。
嫁いできた稲は、稲で幸村を気にしているのは分かった。
人が恋に落ちるのには理由も、時間も関係がない。
惹かれあったふたりの邪魔をしているようで、気分は良くなかった。
しかし、別々に暮らしていたし、顔をあわせる機会は少なく、日常に追われて日々を過ごす。そうしているうちに、忘れかけていたことが胸に巡ったのは、幸村が、大谷吉継の娘を娶った時。
庭でぽろり涙を流す稲を見つけた。横顔と後姿が、あまりに頼りなく見えて、涙で滲んでしまう墨絵のようで――声をかけようとして止めた。稲が求める優しさは別にあるのだから。でも、求めても手に入れることは出来ない。
稲の胸に滲むのは、どんなかたちの想いなのか。
そっとしておこうとした信之だったが、夫に気付いた稲の方から声をかけてきた。
近付いてきた稲の瞳が乾いているのは、きっと咄嗟に涙を拭ったから。
素知らぬ振りで、信之も応じた。ふたりで庭の花を見て、たわいもない話をした。
関ヶ原の頃。
沼田城を乗っ取るつもりできた舅と義弟を、稲はどんなつもりで追い払い。
そして、戦ったのだろうか。
九度山に流謫生活となった義弟を、どんな思いで、その生活を支えてきたのだろう。
妻として、子の母として稲は、十分すぎるほどに良くやってくれた。
大坂で戦が起き、幸村が豊臣についた時。
「私が止めます」と稲が大坂に向かった時。
信之は、このままふたりで、戦場の混乱に紛れて、逃げ延びてくれないだろうかと願った。
初恋の中に、逃れてくれないだろうかと思った。
幸村は、死地を望んでいた。流謫生活のまま生涯を終えるつもりはなく、けれども、徳川に仕えるつもりなく、そうなれば、もののふとしての死を求めるしかなかったのだろう。
しかし、そこに稲が居れば――?
別の人生を、求める思いが浮かぶのではないかと思った。そうであって欲しかった。
が、現実はそううまくいくものではなかった。
稲は、幸村と対峙して、そして、自分の元へ帰ってきた。幸村は消息不明。




「確かに――」

と、稲が言う。

「確かに幸村に恋したこともありました。初恋でした。けれど、それだけなのです。ただそれだけ、昔の恋。綺麗なだけの思い出でしかないのです」

微かな沈黙。
信之が稲をゆっくりと見やれば、互いの視線が真っ直ぐに絡み合う。

「綺麗な思い出は、思い出でしかなくて、いつまでもそれに縛られているわけにはいきません。信之さまと結婚し、いろいろなことがありました」
「苦労をかけてばかりで」

と言った信之を、稲はすかさず微笑で受け止めて、

「私が言いたいのは、そんなことではありません」

ふるふると稲が、首を振る。

「つらいこともありました。嬉しいこともありました。子も授かって、その成長を見守り、楽しいことも、そうでないことも沢山ありました。それらをともに分かち合ってきたのは信之さまとです」

浮かんできたものを、零さない為には、稲はすっ・・・と顔を上向かせた。

「気付けば、ゆるやかに私の中にいたのは、私の心を支配していたのは、信之さまです」

語尾は震えていた。その震えに促されたかのように、ぽろり、稲の瞳から涙が零れた。
それは哀しい色のものではなかった。
その涙を見て、信之は幸村が結婚した時に庭で涙を流していた稲を思い出す。あの時、声をかけること止めた。稲の求める優しさではないと思ったから。
しかし、今。
ぽろり涙を流す稲に、気付けば手を差し出して、そっと抱き寄せている。

「ゆるやかに私は、信之さまに恋していました」

腕の中に落ちてきた信之は、そっと合わせた頬のあたたかさの中で応じている。いつからだったか、このぬくもりは、もう信之の肌の馴染んでしまっている。
つまりは、自分もゆるやかに、稲に――。信之の頬に、苦笑が浮かぶ。
気付かなかったのではない。気付こうとしていなかったのかもしれない。

(手放せない・・・か)

腕の中で、稲が身じろいだ。
咄嗟に手を緩めれば、稲は両手で信之の胸を押して、胸元の袷をぐっと掴むと、ぷいっと顔を反らす。

「稲?」
「怒っているんです。今までずっと勘違いされてきたことを怒っているんです」

そうは言っているが、その顔に怒りの色は見えない。ただ拗ねているようにしか見えない。

「私は――私の気持ちを言ったのに、その、信之さまはどうなんですか?」

ごにょごにょと口ごもったように稲が言うそれに、信之は瞳を和らげる。
けれど、何を言われているのか分からない、素知らぬ振りをして、

「何をですか?稲が私に何をですか?」

と言ってみせれば、まぁ、と稲は声を上げる。
さすがにその瞳に、怒った色が灯ったが、稲は手を放そうとしない。信之は、その稲の手に自分のそれを重ねて、包み込む。

ゆるやかに、気付かずうちに想いを温めてきた夫婦。
きっとこれからもゆるやかに――多くの困難がまだ残っていても――きっと時間を重ねていくのだろう。
重ねて、包み込んだ稲の手を、信之はしっかりと握り締める。


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