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2024/11
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陣に珍しく華やいだ女の声が響いた。
立花様、とその女は誾千代を呼ぶ。
女の名前は稲。
徳川家康の家臣、本多忠勝の長女で長弓を扱い戦場に立つ。
同じ女武将として誾千代に親しみを感じているのかとても懐いている。
稲は何かしら理由をつけて、誾千代を訪ねてくる。
誾千代は、何も言わずに稲につきあう日もあれば、すげなく断る日もある。
けれど、稲は気にならないのか、誾千代を訪ねてくる。


今、ふたりは秀吉の小田原攻めに従軍していた。
秀吉の九州征伐も落ち着き、天下をおさめるのに最後となった北条との戦。
屈服するか、反抗し続けるか――こうなる前にいくらでもあった生き残る道をふたつまでに削り落としてきた北条は後者を選んだ。
2月に始まったこの戦も4月を過ぎていた。


宗茂は、誾千代が稲の相手をしているのを眺める。
誾千代が侍女以外の女と親しくしているのを見るのは初めてだった。
考えてみれば、誾千代は狭い世界に生きていた。
それはかつて自分も同じだったと宗茂は思う。
秀吉に取り立てられるまで、中央のことなど遠い世界の話だった。
けれど、今は違う。
それを実感したのは初めて上洛をした時。
上洛事態に何も問題はなかった。滞りなく終わった。
名前だけ聞いていた多くの武将に接し、刺激は多かった。
けれど――。
立花城から柳川城に移し、すぐに上洛した。
その後、柳川に戻ったところ誾千代の姿が、城にはなかった。
聞けば宮永村に館を構え、移り住んだというのだ。
誾千代を連れて上洛すれば良かった、と宗茂は悔やみ、そして内心ひどく狼狽もした。英の言うとおりだった。そう痛感した。
いくら秀吉であっても自分が傍にいれば手を出すことはなかっただろうから、連れて行けば良かった。
幾度も連れ戻そうとして反発され、溝ができるばかり。
宗茂が側室を持つこともなければ、誾千代が宗茂に会うことを拒否しているわけでもない。
柳川城で開かれる評定に誾千代は顔を出すし、その数日間は滞在し、宗茂と夫婦として過ごす。
家臣たちは、やれやれという具合でふたりを見ている。
柳川城に誾千代が来るたび、このまま残れ、と何度言ったことだろうか。
思い出して宗茂はため息を落とす。

その時、誾千代が笑った。
昨年結婚したばかりだという稲は、夫と離れ離れになっている。
稲は主力の徳川陣営に、夫である真田信幸は北方隊に属している。
その夫と、舅と義弟の為に羽織に家紋を刺繍しているそうだが、真田家の家紋は六文銭で丸が6つ。丸ばかり刺繍するのに飽きたと言った稲を誾千代が笑ったのだ。
笑われた稲は、子供のように頬を膨らませたかと思うと急に思い出したかのように、

「先日のお茶会での打掛は本当にお似合いでしたわ」

などとうっとりして言う。
淡い黄色地に細かい菊の文様が散らされたそれは初めて上洛した際、秀吉が宗茂に誾千代にと、預けた反物で仕立てられていた。
その菊の細かい刺繍を稲は思い出したようだった。
その反物を渡した時、誾千代は綺麗な品だと褒めはしたが袖を通すことはなかった。
けれど、小田原の包囲戦が始まると余裕を見せつけるかのように秀吉が開いた茶会に呼ばれた時、いつ仕立てていたのかそれを着て秀吉に初めて謁見した。
秀吉はそれを喜び、誾千代の父の武勇を耳にしていたので、是非会いたかったのだと言い、誾千代を喜ばせた。
誾千代に対してもう下心はないように思えたが、どこか釈然としない気持ちも残り、わだかまりがしこりとなっている。

あの時の、誾千代は美しかった。
普段の誾千代は化粧もせず、動きやすいからと袴姿でいることが多い。
だから、女らしく装った誾千代が眩しく、知らない女のようにも思えて、それを誤魔化すかのように「女装」と失言し、家臣に叱られた。
誾千代は嫌な顔を隠そうともせず、髪を荒いしぐさでかきあげた。
その時、ふわりと誾千代の髪の香り――髪だけではなく彼女の自身の香りが混じっていることを宗茂は知っている。その香りが宗茂の鼻先を覆い、やがて胸の底に届いて切なく胸を揺らす。
そして、後悔する。
なぜ素直に誾千代を褒めたりできないのだろう。
けれど、褒めたところで、誾千代も素直に受け入れるはずもないことも分かっている。



誾千代は、宗茂の視線に気付いてたが、気付かぬ振りを続ける。
稲は、新婚だというのに夫に会えない寂しさを訴え、共にいられる誾千代と宗茂を羨ましがる。それを誾千代は、冷静な沈黙で受け止めた。
稲とて、同感して欲しいわけではない。ただちょっと似た立場の女に愚痴を聞いてもらいたいだけ。

「稲殿は、真田殿のことを本当に好いているのだな」

そう言えば、瞬間稲の顔が真っ赤に染まる。
そんな稲を誾千代は、同じ女として少し羨ましくもなる。
なぜ彼女のように、素直に感情を出せないのだろう。
そう思ってふいに思い出す。
茶会が終わった時、そのごたごたに紛れ、秀吉に手招きをされた。
秀吉が作り上げた石垣山一夜城から小田原城が見える場所までふたりで歩いた。

「そちの父の法号の麟白軒道雪は、大友宗麟に消えるまで動じない積もった雪のように仕えるという意味だったかな?」
「そのように聞いております」
「羨ましいものよ」

秀吉が言う。
意味が分からず誾千代は、秀吉の目を覗き込む。

「貧しい百姓の出のわしには、当然古くからの臣下というものがいない。だから、そちの父のような忠誠心溢れる家臣の存在が羨ましい」
「宗――・・・、お、夫は――」

普段のように言いかけて、途中言い直したはいいものの、使い慣れない言葉に頬を赤らめる誾千代に秀吉は、

「良い良い。気取る必要などない。いつも通り呼べばいい」

右手をひらひら振りながら、両の目をとろけそうなほどに細めて、誾千代ににっこりと笑う。それを受けて、誾千代もはにかみながら、

「宗茂は――、太閤殿下に大友の陪臣から一大名にまで取り立てていただきました。義理堅い男です。何かあれば殿下につき従いましょう」
「そちはどうだ?」

一瞬、誾千代は瞳を揺らした後、

「勝算があれば殿下に、なければ敵方に」

にこりと言い放つ誾千代に、秀吉は声をあげて笑う。
誾千代の返答が気に入ったらしい。そして、

「それでいい。それがいい!」

それが正しい道だろう、勝てばそれが正義になるのだから、と付け加える。

「しかし、誾千代。そちの夫は――」

秀吉が視線をずらすと、いらずらっ子のようににやりとする。

「嫉妬深そうだな」
「えっ・・・?」

秀吉の視線の先を誾千代が辿ると、宗茂の姿が見えた。
ただじっ・・・とふたりを見ている。ずっとついてきていたらしい。
ふたりが自分に気付いたと分かったらしい宗茂は、身を翻して姿を消した。

「何を話していたと問い詰められるか?」
「いえ。そういう男ではありません」
「そうか・・・。互いに想いあっている―そう見えるがなぜ別居をしている」
「――殿下の耳にまでそのようなことが・・・、想いあっているのではなく、ただ宗茂が優しいだけで・・・」

誾千代は戸惑った。
そして、言った言葉に、その戸惑いを瞳の中にいっそう濃く滲ませた。
そんな彼女を秀吉は意味あり気に見ていたが、特別何も言う様子はない。
誾千代が口を開くのを待っているのかもしれない。

「ただ――、嫌なんです。私のわがままです」
「わがままとは?」
「宗茂のことは幼馴染で好いておりました。でも、夫婦にはなりたくなかった」
「男と女の考えの違いなのだろうか?わしにはそちの言っていることが分からない」
「今だ自分の中でもうまく整理がついておりません」

この時のことを不思議だ、と誾千代は思う。
なぜ秀吉には素直に話せたのだろうと。
気持ちが良いほど見事に陰謀をはりめぐらし、ハッタリをきかせ堂々たる采配で大軍を指揮し、貧しい百姓の身分から立身してみせた男に余裕を感じるのだろうか。

「そちは幼少にして立場なの家督を継いでおる。その自負が邪魔をするということか?幼馴染の男に家督を取られなくなかった?」
「それもあるかと思いますが・・・、宗茂の前で女ではありたくないと」
「ますます意味が分からない」
「対等でいたかったのかもしれません。いつかは誰かの妻になるとしても、割り切って子をなすだけの営みで済む相手であれば気が楽だったのではないかと思います」
「それでは男は面白くない」
「けれど、男であれば好いた女を側室に迎えればいいだけのことかと」
「いや、男とはそう簡単なものではない、それに婿養子だとますます簡単に割り切れないだろう」
「だから――、嫌なんです。宗茂を縛り付ける」
「縛り付けられてもその中に幸福を見出す男だと思うし、縛られていると感じてもいないのではないだろうか?」

そこまで言って秀吉は、クッと笑いを漏らした。
視線が遠くにある。おそらく、宗茂がいるのだろうと思い誾千代は振り返らない。

「本当はそちに狙いをつけておったが、やっと手に入れた信頼できる男を裏切ることはできない」

屈託なく笑う秀吉に、誾千代は口の端に義理程度の笑みを浮かべる。

「そちはわしの養女に似ている。豪という名で、まだ小さいがそちのようになるのかのぉ」

楽しみのような困ったような、そう言いつつもまったく困ってなどいない様子の秀吉に誾千代は、

「愛や恋など知らぬうちに嫁がせるのが良いでしょう」

そう瞼を伏せた。
伏せた瞼から遠くに小田原城が見えた。
難攻不落の城。そう言われたあの城が落ちるのも時間の問題。



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