×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
「兄上は――、義姉上を愛してますか?」
そう言ったのは幸村。
信幸の真田屋敷に前触れもなくやってきた幸村と、肴もなく酒を飲んでいるとそんなことを言った。
思いがけない弟の言葉に、げほっと咳き込む。
酒が器官の変なところに入ってしまったのか、げほげほっと大きく肩を震わせる。
「大丈夫ですか、兄上」
「お前が――変なことを言うからだろう」
やがて、落ち着くと信幸は、はぁ、と大きく息を落とす。
「一体どうしたんだ?大谷吉継殿の姫――えっ・・・と」
「里々です。兄上は相変わらず人の名前を覚えないのですね」
幸村の呆れたような視線を黙って受け止め、それから、
「その里々殿とうまくいっていると聞いていたが・・・」
「良い妻です」
「なら、どうして急に――」
言いかけてから、信幸も自分も同じか、と苦笑を唇に浮かばせる。
稲も良い妻で、良い母である。
不満もなく、大切な女ではあるが愛しているという感情を滲ませたことはない。
そもそも――愛するということがどういうことなのかが分からない。
「不満もない良い妻だけど、愛してはいないといったところか」
「よくお分かり――。」
いや、私と一緒なのですね、とぽつり幸村は続けた。
「お前のところは結婚したばかりだろう。まだこれからだというのに」
「私はそもそも結婚する気はありませんでした――。」
気軽でいたかったから――。
心残りになるような妻子は必要ない。気楽な次男坊ですし、他に昌親や信勝もおりますから自分ひとり結婚しなくとも平気だと思ってました、と幸村は言う。
幸村の縁談は、石田三成から持ち込まれたものだと信幸は聞いている。
「断れなかったのか?」
「いえ、それも多少はありますが―、兄上のせいですよ」
「はっ?」
小田原征伐が始まる頃――。
「私に言ったことを覚えてますか?」
「何か言ったか?」
「――・・・本当に思いつきで話しただけだったんですか?」
「だから、何か言ったか?」
「――もういいです」
拗ねた子供のように唇をへの字に歪ませる幸村を見ながら、信幸は酒を一口口に含む。何を自分が言ったか――思い巡らせていると思い当たることがひとつ。
「仮に自分が死んだらお前が稲を妻にすることになるかもしれない、と言ったことか?」
「――・・・そうです」
「それがなぜお前の結婚に繋がるんだ?」
信幸の疑問に、幸村は瞼を伏せ、短く黙り込んだが、ゆっくりと目を開くと、
「怖くなったのです」
あの時、兄上がそれを本当に望んでいるようで怖かった、と。
幸村の言葉は、ひとり言かのように小さく、けれど、重く膝に落ちていった。
信幸は、まずは呟きが落ちたあたりを見やり、それから、膝の上で杯をぐっと握っている手に気付く。
あの時の幸村も動揺していた。
そして、今でもそれを引きずらせていたことに信幸は、驚いた。
「兄上はどこかいつも――投げやりなところがあった。だから、あの戦の折、本当に死ぬつもりなのではないかと・・・。でも、まぁ、父上が同行しているから見張ってくれるだろうと安心はしてましたが・・・」
「見張る・・・って・・・」
「父上も似たようなことを言ってましたから」
「――・・・」
「父上が渋るのに義姉上との縁談受けて、徳川との繋がりを作った方がいいと言い出した時に、自分のこととなると投げやりだが、真田家の為になることだと頑固だと父上が言ってました」
「――それは約束したから」
「誰と?」
今度は信幸が答えない。ただ、ふっとかすかに微笑するのみ。
そうなると、いくら聞いてもはぐらかれるだけだと幸村も分かっている。
だから、構わず続ける。
「義姉上なんて、勘弁ですからね。だから、機会があれば自分も真田の家の為に、結婚すべきだと思いました。そうすれば、嫌でも兄上も真田家の為に頑張らないといけなくなる。私は、義姉上が嫌いでしたから」
「――へぇ・・・」
信幸には意外な気がした。
普段女のことなど気にもしない幸村が、義姉とはいえ気にしている様子であったし、思いのほか気が合うようだし、このふたりの方がうまくいくのではないかと思う気持ちがあったので、幸村に動揺を与えるような言葉がぽろり出てしまったのである。
「でも、義姉上は利害を関係なしで兄上を好いてますし、兄上は兄上で忍城攻めの際に、連れてきてしまう」
「――・・・」
「兄上は変わった、と思いました。兄上を変えたのは義姉上だと思うと、嫌悪していた気持ちは消えました」
「変わった?」
「ええ。変わりました。だから、兄上が義姉上を愛していないというのは、にわかに信じられない気持ちです」
「私は――」
他人を愛するという気持ちが分からない――。
信幸の言葉に、幸村が兄の顔をまじまじと見つめてくる。
その視線に信幸は、戸惑いにも似た苦笑を眉のあたりに揺らすと、
「お前はいるのだろう?愛している、と思える女が」
途端、幸村は視線のかたちを素早く固めた。
それは、心の色が滲み出るのを隠すような不器用な仕草だった。
「婚姻は――家と家との繋がりであって、愛だとか恋だとかを求めるものではない」
「それは分かっています」
「くのいちか?」
幸村の唇が、ぴくり揺れた気がした。
「くのいちが戻らなくって、その存在の大きさに気付いた?それとも、己の心をずっと偽り続けていたのか?」
「――その両方です」
「両方?」
「受け止めてやれないのなら、気付いていない振りを続けた方がいい」
「一度、くのいちに――」
他家の養女にしてお前に嫁がせることが出来る、と言ったことがあると信幸が言う。
幸村の頬を縁取る驚きに、
「あまりに不憫に思えてそう言ったが、断られた。普通の女としての幸せよりお前の幸せを守るために戦う、忍びの道を選ぶと」
「くのいちがそんなことを・・・」
幸村が抑揚なく呟く。彼にしては珍しく感情の欠けた声音。
「今のお前が大切にするのは――?」
「里々・・・なので――?」
「返事を私に求めるな」
信幸もまた、彼にしては珍しく幸村の言葉を鋏で切るように遮る。
遮られた幸村は、その視線を真っ直ぐに上げながら沈黙を滲ませる。
しかし、流れる沈黙に耐えられなくなったのか、信幸が喉を揺らして笑う。
「何ですか?」
不満気に幸村が言う。
「兄弟でする話ではないような気がして・・・。三成殿や兼続殿の方がいいのではないか?」
「あのお二人は、夫婦仲がとてもいいので・・・」
「それでは、私と稲の夫婦仲が悪いようにも聞こえるのだが」
「そういう意味ではありません。」
慌てる幸村に、信幸はまた笑う。笑いながら、
「――好きな女と添えればいいんだがな」
と言った父に、
「――幸村にはそうしてやってください」
そう答え、それから、
「あいつは知らない間に女につけこまれて、それでも楽しくやってそうですがね」
そうとも言って、父と笑ったことを思い出す。そうなると思っていたから気軽に口に出せた。
けれど、結局――、信幸は心の中で首を振る。
空になった幸村の杯に酒を注いでやると、一気にそれを飲み干し、今度は信幸の杯に酒を注いでくる。
「すまないな・・・」
「えっ?」
何でもない、と言うと信幸も一気に酒を飲み干す。
【戻る】【前】【次】
そう言ったのは幸村。
信幸の真田屋敷に前触れもなくやってきた幸村と、肴もなく酒を飲んでいるとそんなことを言った。
思いがけない弟の言葉に、げほっと咳き込む。
酒が器官の変なところに入ってしまったのか、げほげほっと大きく肩を震わせる。
「大丈夫ですか、兄上」
「お前が――変なことを言うからだろう」
やがて、落ち着くと信幸は、はぁ、と大きく息を落とす。
「一体どうしたんだ?大谷吉継殿の姫――えっ・・・と」
「里々です。兄上は相変わらず人の名前を覚えないのですね」
幸村の呆れたような視線を黙って受け止め、それから、
「その里々殿とうまくいっていると聞いていたが・・・」
「良い妻です」
「なら、どうして急に――」
言いかけてから、信幸も自分も同じか、と苦笑を唇に浮かばせる。
稲も良い妻で、良い母である。
不満もなく、大切な女ではあるが愛しているという感情を滲ませたことはない。
そもそも――愛するということがどういうことなのかが分からない。
「不満もない良い妻だけど、愛してはいないといったところか」
「よくお分かり――。」
いや、私と一緒なのですね、とぽつり幸村は続けた。
「お前のところは結婚したばかりだろう。まだこれからだというのに」
「私はそもそも結婚する気はありませんでした――。」
気軽でいたかったから――。
心残りになるような妻子は必要ない。気楽な次男坊ですし、他に昌親や信勝もおりますから自分ひとり結婚しなくとも平気だと思ってました、と幸村は言う。
幸村の縁談は、石田三成から持ち込まれたものだと信幸は聞いている。
「断れなかったのか?」
「いえ、それも多少はありますが―、兄上のせいですよ」
「はっ?」
小田原征伐が始まる頃――。
「私に言ったことを覚えてますか?」
「何か言ったか?」
「――・・・本当に思いつきで話しただけだったんですか?」
「だから、何か言ったか?」
「――もういいです」
拗ねた子供のように唇をへの字に歪ませる幸村を見ながら、信幸は酒を一口口に含む。何を自分が言ったか――思い巡らせていると思い当たることがひとつ。
「仮に自分が死んだらお前が稲を妻にすることになるかもしれない、と言ったことか?」
「――・・・そうです」
「それがなぜお前の結婚に繋がるんだ?」
信幸の疑問に、幸村は瞼を伏せ、短く黙り込んだが、ゆっくりと目を開くと、
「怖くなったのです」
あの時、兄上がそれを本当に望んでいるようで怖かった、と。
幸村の言葉は、ひとり言かのように小さく、けれど、重く膝に落ちていった。
信幸は、まずは呟きが落ちたあたりを見やり、それから、膝の上で杯をぐっと握っている手に気付く。
あの時の幸村も動揺していた。
そして、今でもそれを引きずらせていたことに信幸は、驚いた。
「兄上はどこかいつも――投げやりなところがあった。だから、あの戦の折、本当に死ぬつもりなのではないかと・・・。でも、まぁ、父上が同行しているから見張ってくれるだろうと安心はしてましたが・・・」
「見張る・・・って・・・」
「父上も似たようなことを言ってましたから」
「――・・・」
「父上が渋るのに義姉上との縁談受けて、徳川との繋がりを作った方がいいと言い出した時に、自分のこととなると投げやりだが、真田家の為になることだと頑固だと父上が言ってました」
「――それは約束したから」
「誰と?」
今度は信幸が答えない。ただ、ふっとかすかに微笑するのみ。
そうなると、いくら聞いてもはぐらかれるだけだと幸村も分かっている。
だから、構わず続ける。
「義姉上なんて、勘弁ですからね。だから、機会があれば自分も真田の家の為に、結婚すべきだと思いました。そうすれば、嫌でも兄上も真田家の為に頑張らないといけなくなる。私は、義姉上が嫌いでしたから」
「――へぇ・・・」
信幸には意外な気がした。
普段女のことなど気にもしない幸村が、義姉とはいえ気にしている様子であったし、思いのほか気が合うようだし、このふたりの方がうまくいくのではないかと思う気持ちがあったので、幸村に動揺を与えるような言葉がぽろり出てしまったのである。
「でも、義姉上は利害を関係なしで兄上を好いてますし、兄上は兄上で忍城攻めの際に、連れてきてしまう」
「――・・・」
「兄上は変わった、と思いました。兄上を変えたのは義姉上だと思うと、嫌悪していた気持ちは消えました」
「変わった?」
「ええ。変わりました。だから、兄上が義姉上を愛していないというのは、にわかに信じられない気持ちです」
「私は――」
他人を愛するという気持ちが分からない――。
信幸の言葉に、幸村が兄の顔をまじまじと見つめてくる。
その視線に信幸は、戸惑いにも似た苦笑を眉のあたりに揺らすと、
「お前はいるのだろう?愛している、と思える女が」
途端、幸村は視線のかたちを素早く固めた。
それは、心の色が滲み出るのを隠すような不器用な仕草だった。
「婚姻は――家と家との繋がりであって、愛だとか恋だとかを求めるものではない」
「それは分かっています」
「くのいちか?」
幸村の唇が、ぴくり揺れた気がした。
「くのいちが戻らなくって、その存在の大きさに気付いた?それとも、己の心をずっと偽り続けていたのか?」
「――その両方です」
「両方?」
「受け止めてやれないのなら、気付いていない振りを続けた方がいい」
「一度、くのいちに――」
他家の養女にしてお前に嫁がせることが出来る、と言ったことがあると信幸が言う。
幸村の頬を縁取る驚きに、
「あまりに不憫に思えてそう言ったが、断られた。普通の女としての幸せよりお前の幸せを守るために戦う、忍びの道を選ぶと」
「くのいちがそんなことを・・・」
幸村が抑揚なく呟く。彼にしては珍しく感情の欠けた声音。
「今のお前が大切にするのは――?」
「里々・・・なので――?」
「返事を私に求めるな」
信幸もまた、彼にしては珍しく幸村の言葉を鋏で切るように遮る。
遮られた幸村は、その視線を真っ直ぐに上げながら沈黙を滲ませる。
しかし、流れる沈黙に耐えられなくなったのか、信幸が喉を揺らして笑う。
「何ですか?」
不満気に幸村が言う。
「兄弟でする話ではないような気がして・・・。三成殿や兼続殿の方がいいのではないか?」
「あのお二人は、夫婦仲がとてもいいので・・・」
「それでは、私と稲の夫婦仲が悪いようにも聞こえるのだが」
「そういう意味ではありません。」
慌てる幸村に、信幸はまた笑う。笑いながら、
「――好きな女と添えればいいんだがな」
と言った父に、
「――幸村にはそうしてやってください」
そう答え、それから、
「あいつは知らない間に女につけこまれて、それでも楽しくやってそうですがね」
そうとも言って、父と笑ったことを思い出す。そうなると思っていたから気軽に口に出せた。
けれど、結局――、信幸は心の中で首を振る。
空になった幸村の杯に酒を注いでやると、一気にそれを飲み干し、今度は信幸の杯に酒を注いでくる。
「すまないな・・・」
「えっ?」
何でもない、と言うと信幸も一気に酒を飲み干す。
【戻る】【前】【次】
PR