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「ひゃー、大きくなったね!」
頭の真上で何かがはじけた。
それがくのいちの声だと気付くまでに、ひと呼吸。
稲は、ゆっくりと視線を上げると、木の上にいるくのいちを見上げる。
稲は、昌幸と孫六郎が庭で遊ぶのを眺めていた。
「本当に神出鬼没ね」
稲がくのいちに言えば、くのいちはにこりとする。
ふわりと木の葉が舞い落ちるように地に降りてきたくのいちが、稲の腕の中の仙千代の頬にぷにぷにと触れるので、
「抱いてみる?」
と言えば、くのいちの顔に笑顔の花が咲く。仙千代を抱きながら、
「人間ぽくなったねー」
などと言う。前にくのいちが仙千代に会ったのはまだ産まれたばかりの頃。
「そろそろ歩きそうよ」
「へー、次に会ったら歩いてお喋りしているのかな?」
「そうかもね」
どっちに似ているかな、なんて言っていたくのいちだったが、ハッとしたように、
「腰の皮の物入れに信幸さま宛の文が入ってるから渡してください」
「――そんなのでいいの?」
「いいのいいの。まだ抱っこしてていい?」
「いいわよ」
稲は、くのいちの腰の物入れの中から小さく折りたたまれた文を取り出す。
「信幸さまに渡してくるわ」
「稲ちんがいなくて泣かないかな?」
「お腹もいっぱいだし、襁褓も替えたばかりだから平気よ。泣いたら孫六郎があやしに来てくれるわよ」
「子供が子供を~?」
「上手なんだから」
言いながら、裾を翻すと信幸の執務室へ向かう。
向かう途中、ふと歩を止めて、仙千代を抱いているくのいちを振り返る。
先ごろ、幸村は結婚をした。
相手は、豊臣政権重臣の大谷吉継の娘だ。
真田家は天下人の豊臣家と、実力者である徳川家の双方と絆を作ることになった。
けれど――。
くのいちの存在に気付いた孫六郎が、駆け寄ってきたのでしゃがみこんで、にこにこと無邪気な笑顔を見せているくのいちの心中は――。
きしりと稲の胸が痛んだ。
くのいちは――。
今、どんな葛藤を抱えながら幸村に仕えているのだろうか?
考えるだけで稲の胸がきりきりと痛んで苦しくなる。
文を読む信幸の横顔を、稲はじっと見つめた。
もろ肌脱ぎになって弓の稽古をすることも少なくないのに、さほど日焼けをしないのは体質なのか、羨ましいななどと思っていた稲だったが、
「子供たちは?」
「義父上とくのいちが見てくれています」
「そうですか」
ふと信幸のまなじりが緩む。
けれど、それも一瞬のこと。すぐに沼田城主としての信幸の顔となると、溜息が滲ませる。その溜息の意味をはかりかねた稲が小首をかしげたその時。
ジジッ・・・と蝉の鳴いた。
信幸は、その蝉に気が取られたように、
「気が早い蝉もいるものだ」
「ええ。本当に」
「今年は暑い夏に・・・、なりそうですよ」
「夏はお嫌いでしたっけ?」
問いかけて途中、ハッとする。きっと、季節のことを指しているのではない。
何が書かれていたのかは分からない。
けれど、きっと――。
信幸は立ち上がると、黙り込んだ稲の脇をすり抜けて、障子を開いて縁に出る。
すると、庭から子供たちの賑わい楽し気な声が聞こえていた。
そんな声を聞きながら、出浦と家臣の名を呼ぶ。
出浦盛清。真田家の草の者(忍者)の棟梁だ。真田家では信幸に出浦、幸村にくのいちという草の者がついている。
すっと現れた出浦に何かを言いつけると、稲に振り返る。
「父上を呼んできてもらえますか?」
言われて稲は頷いて、立ち上がる。
縁の軋みが聞こえなくなり、稲が去って行った頃。
「狸から聞いて、どうせお前は知っていたのだろう」
幸村からの文を読み終えて昌幸が言った。
否定しない信幸のそれを肯定と受け取り、溜息をひとつ。その溜息を受け取るように、
「妙な咳をするようになって痩せてはいるとは聞いてましたが、ここまで危ないとは知りませんでした」
信幸が言う。
先日、家康に会った時の愚痴は、朝鮮にいる兵のこと。跡継ぎの秀頼がまだ幼いこと。多くの問題を抱えたまま死なれては困る、という前提があってのことだったが、そこまで深刻なものである雰囲気ではなかった。
信幸には分からないのだ。
家康は、秀吉亡き後、天下を狙っているのかそうでないのか。
「嫌いではなかった――かもしれない」
そう言っていた。
その言葉の節々にどこか、不思議な親しみがあったのも確か。
人は自分を何を考えているのか分からない――そう言う。
けれど、結局どんなに感情が顔に出る人間でも、その心底に渦巻いている心の内の本音など誰にも分からないものではないだろうかと信幸は思う。
それは稲に対しても――。
あれほど自分を慕ってくれているのに、まだ世継ぎを焦る必要もないというのに、実家の力を使ってでも他の女―あやめをあてがってきた。
稲の気持ちが分からなかった。
しかしながら――。
一番分からないのは自分自分かもしれない。
信幸は自分で自分が分からない。
愛らしい妻だ。徳川との縁の為に娶った妻だったけれど、別段不満もなく、自分を慕ってくれている愛らしい妻だ。
でも。
稲を愛しているのか――と聞かれたら返答に困る。
稲を大切に思う気持ちは真実あるけれど――。
分からない、と思う。
そして、同時に家康も自分自分が分かっていないのではないだろうか。
天下を狙う気持ちもある。
けれど――。
貧しい百姓の身分から立身してみせた男に、才気を感じたその気持ちが捨てられずにいる。
そんなところなのかもしれない。
「伏見に行ってきます」
信幸の言葉に昌幸も頷いたが、
「孫六郎も連れて行こうと思います」
と言えば、眉根を濃く歪ませる。
「いざとなったら――どちらに預けるつもりなのだ?」
昌幸の問いかけに、信幸はその頬に苦笑を浮かべると
「邪推しすぎですよ。ただ向こうで人質生活をしている母上や、幸村とその妻に会わせようと考えただけのことですよ。それに徳川の両義父も会いたいとうるさいものですから」
「本当にそれだけか?」
「ええ、本当に」
それに、今すぐに事態が動くことはないでしょう――と信幸は続ける。
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頭の真上で何かがはじけた。
それがくのいちの声だと気付くまでに、ひと呼吸。
稲は、ゆっくりと視線を上げると、木の上にいるくのいちを見上げる。
稲は、昌幸と孫六郎が庭で遊ぶのを眺めていた。
「本当に神出鬼没ね」
稲がくのいちに言えば、くのいちはにこりとする。
ふわりと木の葉が舞い落ちるように地に降りてきたくのいちが、稲の腕の中の仙千代の頬にぷにぷにと触れるので、
「抱いてみる?」
と言えば、くのいちの顔に笑顔の花が咲く。仙千代を抱きながら、
「人間ぽくなったねー」
などと言う。前にくのいちが仙千代に会ったのはまだ産まれたばかりの頃。
「そろそろ歩きそうよ」
「へー、次に会ったら歩いてお喋りしているのかな?」
「そうかもね」
どっちに似ているかな、なんて言っていたくのいちだったが、ハッとしたように、
「腰の皮の物入れに信幸さま宛の文が入ってるから渡してください」
「――そんなのでいいの?」
「いいのいいの。まだ抱っこしてていい?」
「いいわよ」
稲は、くのいちの腰の物入れの中から小さく折りたたまれた文を取り出す。
「信幸さまに渡してくるわ」
「稲ちんがいなくて泣かないかな?」
「お腹もいっぱいだし、襁褓も替えたばかりだから平気よ。泣いたら孫六郎があやしに来てくれるわよ」
「子供が子供を~?」
「上手なんだから」
言いながら、裾を翻すと信幸の執務室へ向かう。
向かう途中、ふと歩を止めて、仙千代を抱いているくのいちを振り返る。
先ごろ、幸村は結婚をした。
相手は、豊臣政権重臣の大谷吉継の娘だ。
真田家は天下人の豊臣家と、実力者である徳川家の双方と絆を作ることになった。
けれど――。
くのいちの存在に気付いた孫六郎が、駆け寄ってきたのでしゃがみこんで、にこにこと無邪気な笑顔を見せているくのいちの心中は――。
きしりと稲の胸が痛んだ。
くのいちは――。
今、どんな葛藤を抱えながら幸村に仕えているのだろうか?
考えるだけで稲の胸がきりきりと痛んで苦しくなる。
文を読む信幸の横顔を、稲はじっと見つめた。
もろ肌脱ぎになって弓の稽古をすることも少なくないのに、さほど日焼けをしないのは体質なのか、羨ましいななどと思っていた稲だったが、
「子供たちは?」
「義父上とくのいちが見てくれています」
「そうですか」
ふと信幸のまなじりが緩む。
けれど、それも一瞬のこと。すぐに沼田城主としての信幸の顔となると、溜息が滲ませる。その溜息の意味をはかりかねた稲が小首をかしげたその時。
ジジッ・・・と蝉の鳴いた。
信幸は、その蝉に気が取られたように、
「気が早い蝉もいるものだ」
「ええ。本当に」
「今年は暑い夏に・・・、なりそうですよ」
「夏はお嫌いでしたっけ?」
問いかけて途中、ハッとする。きっと、季節のことを指しているのではない。
何が書かれていたのかは分からない。
けれど、きっと――。
信幸は立ち上がると、黙り込んだ稲の脇をすり抜けて、障子を開いて縁に出る。
すると、庭から子供たちの賑わい楽し気な声が聞こえていた。
そんな声を聞きながら、出浦と家臣の名を呼ぶ。
出浦盛清。真田家の草の者(忍者)の棟梁だ。真田家では信幸に出浦、幸村にくのいちという草の者がついている。
すっと現れた出浦に何かを言いつけると、稲に振り返る。
「父上を呼んできてもらえますか?」
言われて稲は頷いて、立ち上がる。
縁の軋みが聞こえなくなり、稲が去って行った頃。
「狸から聞いて、どうせお前は知っていたのだろう」
幸村からの文を読み終えて昌幸が言った。
否定しない信幸のそれを肯定と受け取り、溜息をひとつ。その溜息を受け取るように、
「妙な咳をするようになって痩せてはいるとは聞いてましたが、ここまで危ないとは知りませんでした」
信幸が言う。
先日、家康に会った時の愚痴は、朝鮮にいる兵のこと。跡継ぎの秀頼がまだ幼いこと。多くの問題を抱えたまま死なれては困る、という前提があってのことだったが、そこまで深刻なものである雰囲気ではなかった。
信幸には分からないのだ。
家康は、秀吉亡き後、天下を狙っているのかそうでないのか。
「嫌いではなかった――かもしれない」
そう言っていた。
その言葉の節々にどこか、不思議な親しみがあったのも確か。
人は自分を何を考えているのか分からない――そう言う。
けれど、結局どんなに感情が顔に出る人間でも、その心底に渦巻いている心の内の本音など誰にも分からないものではないだろうかと信幸は思う。
それは稲に対しても――。
あれほど自分を慕ってくれているのに、まだ世継ぎを焦る必要もないというのに、実家の力を使ってでも他の女―あやめをあてがってきた。
稲の気持ちが分からなかった。
しかしながら――。
一番分からないのは自分自分かもしれない。
信幸は自分で自分が分からない。
愛らしい妻だ。徳川との縁の為に娶った妻だったけれど、別段不満もなく、自分を慕ってくれている愛らしい妻だ。
でも。
稲を愛しているのか――と聞かれたら返答に困る。
稲を大切に思う気持ちは真実あるけれど――。
分からない、と思う。
そして、同時に家康も自分自分が分かっていないのではないだろうか。
天下を狙う気持ちもある。
けれど――。
貧しい百姓の身分から立身してみせた男に、才気を感じたその気持ちが捨てられずにいる。
そんなところなのかもしれない。
「伏見に行ってきます」
信幸の言葉に昌幸も頷いたが、
「孫六郎も連れて行こうと思います」
と言えば、眉根を濃く歪ませる。
「いざとなったら――どちらに預けるつもりなのだ?」
昌幸の問いかけに、信幸はその頬に苦笑を浮かべると
「邪推しすぎですよ。ただ向こうで人質生活をしている母上や、幸村とその妻に会わせようと考えただけのことですよ。それに徳川の両義父も会いたいとうるさいものですから」
「本当にそれだけか?」
「ええ、本当に」
それに、今すぐに事態が動くことはないでしょう――と信幸は続ける。
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