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背中に愛らしい重みを感じながら稲は、
「ほーら、邪魔をしないの」
背中に乗りかかるように甘えてくる孫六郎にくすくすと笑う。
けれど、孫六郎はお構いなしで稲の背中に体重をかけて、喜んで笑っている。
近くに控えていた侍女が手を差し出すが、稲はやんわりと制する。
邪魔だ、と言葉では言うが結局のところ稲も孫六郎に甘えられて嬉しいのだ。嬉しくて仕方がないのだ。
仙千代の襁褓も侍女に任せずに自分で替えた。
子供の世話を自分でするのがこんなにも嬉しいとは。
稲の頬は自然と緩む。
仙千代の世話を終え、侍女の預け、孫六郎に手を伸ばしてやると、飛びつくように抱きついてきた。抱きしめた孫六郎の髪から、子供特有のほんのりと甘い匂いがのぼる。それが稲を幸せにする。
「大殿が、まだかまだかとお待ちですよ」
頬にこらえきれない笑みを浮かべながら侍女が呼びにきたので、思わずその場にいた皆が声をあげて笑った。
「お祖父様が待ってますよ」
孫六郎を抱きながら稲も立ち上がる。
ぎゅっと抱きしめ直し、その幸せな重みにふと切なくなった。
孫六郎は稲が産んだ子ではない。あやめが産んだ子供なのだ。稲に育てて貰えるのなら安心です、そう言って預けてくれた子供。
稲にはなかなか子供が出来なかった。
夭逝したが信幸には娘がいたのだから、問題は自分だろう、と稲は悩んだ。
悩んで医師に相談したり、いろいろした。
女武将は、身体が自然と戦に備えようとしているのか生理不順になったりするので、そのせいではないだろうかと言われた。
悩んで悩んだ結果、あやめに言った。
「信幸さまのお子を産んでください」
あやめは、大きな瞳を一層大きく見開いて驚いていた。
驚きすぎてしばらく言葉を失った後、今更もう・・・と口先でごにょごにょと言ってから、
「まだお若いのですからね。深刻にならないで。気楽したら意外にね、ほらっ、出来ることもあるそうよ」
ね、と妹を励ますように、深い慈しみをこめた目を稲に向けた。
信幸があやめから遠ざかっていることは知っていた。
正室である自分を気遣ってのことだろうと分かっていた。
分かっているからこそ辛かった。
いくら信幸に言っても、いつもまだそこまで深刻に考えることはないとはぐらかされるだけ。それが悔しかった。自分がこんなに悩んでいるのに、と。
信幸には父、忠勝と義父である家康を通して話してもらった。
はぐらされるのが悔しくて卑怯だと分かっていて、徳川の「力」を使った。
家康と忠勝に呼ばれ、帰ってきた時、信幸は不機嫌だった。
初めて稲が目にした信幸の厳しい感情の色だった。
そもそも信幸は、他人に感情の色を読ませないところがある。
だから、初めて稲が見る信幸の「怒り」でもあった。
なぜそこまで怒るのか稲には分からなかった。
正室に子供が出来なければ、側室が子供を産むのは当然のこと。
なのに――。
いつも伏目がちの睫が真っ直ぐに稲を向けられ、睨まれたような気がしたが、それも一瞬。次の瞬間にはもう感情が鎮められ、瞼を伏せた無機質な目をしていた。
「稲が――」
真田家のことを思ってしてくれたことですから。
そう言うと、その足のままあやめの元へ向かい、しばらく通い続けた。
稲に向ける目はいつもの通り優しくて――けれど。
自分を見ているはずなのに、その瞳に自分は映っていない。
そう感じさせる初めて会った時と同じもの。
「本当は私が兄なのだそうです」
そう教えてくれたのは幸村。
沼田に信幸に会い来たが、信幸があやめのところに行っており不在だったので、稲が相手をしていた時のこと。
城内の誰かから話を聞いたのか突然そんなことを言い出した。
「私を産んだ女は、母の侍女だったそうですがすぐに死に、私は母に引き取られました。その後に、兄上が産まれ、年子だったので、父は正室の子供である兄上を長男とし、私を次男としたそうです」
言葉を失う稲に、ふと寂しげに視線を下げた後、
「暗黙の了解、とでもいうのでしょうか。誰もこのことには触れてきません。それでも、兄上も私も知ってしまいました」
「子供の頃の兄上は、本当に身体が弱くて――今でも決して丈夫ではありませんが、子供の頃は本当によく寝込んでまして、だからこそ――」
「いや――何でもありません。けれど、ずっと兄上は私に対して負い目を感じているようなのです。」
ふと幸村の目が遠い目をする。
遠いものの輪郭を捉えるような遠い目。
こんな目を知っていると稲は思った。そうだ、あやめだと気付いた時。
「私は兄上が正室の子供なのだから家督を継ぐのは当然のことと思ってますが、兄上はそうではなかった。兄上は――子供の頃は本当に不器用で、出来ないものが多かった」
「それを克服しようと頑張ろうと無理をして、体調を崩して寝込むという悪循環を繰り返してました」
「その悪循環が兄上を一層追い詰めていた」
「兄上が変わったのは――武田家が滅亡して甲府から戻ってきた時」
幸村は、長く話し疲れたのかそのまま、しばらく黙った。
黙ったまま、ちびりちびりと酒を飲み干していく。
稲も沈黙を合わせる――いや、稲に出る言葉がなかっただけのこと。
それでも、幸村の杯が空になったのに気付いて、注ごうとした時。
「これから――」
これから絶対に義姉上に子供が出来ないという確証があるのですか?
稲にそう問いかけてきた。
その問いかけに稲はふっと笑った。楽しくて笑ったわけではない。苦笑と胸の痛みを堪えるための笑みだ。笑いでもしなければ哀しくなってしまうから。
「分かりません。でも――」
「でも?」
「お約束します。仮に私に子供が出来ても、先に生まれた男子が真田家の嫡男です」
稲の言葉に幸村は何も言わない。
「信幸さまのお子なら、私には誰が産んでも可愛いと思いますが、それでも、あやめ様ならいいと思ったのです」
そっと両手で、子供を抱くようなカタチをつくり広げると、
「早く抱きたいわ。信幸様の子供を――」
うっとり夢見るようにそう言う。
ありがとう、と幸村が言った気がした。
幻聴かもしれないと思うほどの小さな小さな蜻蛉の羽のような儚いものだった。
それに稲は、そっと首を振る。
「話してくださって有難うございます」
まるで独り言のようにぽつり零す。
幸村は何も言わず、そっと空の杯を差し出してきたので、稲は酒を注ぐ。
注ぎながら、幸村は信幸がいないことを分かっていて、わざわざ話しに来てくれたのではないかと思った。
しばらくして昌幸、信幸、幸村は朝鮮出兵の為に肥後名護屋に向かい、布陣した。
一年半近く布陣してから京に向かい、京都伏見城の普請役を命じられた。
その間にあやめは男子―孫六郎を出産すると、稲に預けた。
預ける時、とっておきの秘密話を明かすように、
「――本当は私、好きな人が別にいるのですよ」
ふわり微笑みながらそんなことを言った。
「信幸さまもご存知のことです。」
えっ・・・、えぇっ、と動揺する稲を楽しげに、からかうように瞳を揺らした後は、何も言わない。稲もあやめがこれ以上何も言う気がないということが分かった。
ただ一度孫六郎を強く抱きしめた後、そっと稲に手渡してくる。
ずっしりとした赤子の重みを受け止めて、そっと抱きしめた。
温かくて愛らしい命の重み。
信幸が沼田に戻ってきたのは、孫六郎が歩き始めたばかりの頃。
まだおしゃべりも覚えていない赤児だったが、とにかく元気がいい子だった。
初めて会う父にも、とことこと転びそうな足取りで懸命に手を伸ばして近づいていき、信幸も自然な動作で孫六郎を抱き取っていた。
「この子が・・・私の子か」
呟きつつ、父に抱かれご満悦そうな息子をじっと見つめていた。
その後――。
真田家の跡取りを早く、という負担から解放されたのが良かったのか、稲は次男―仙千代を授かった。
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「ほーら、邪魔をしないの」
背中に乗りかかるように甘えてくる孫六郎にくすくすと笑う。
けれど、孫六郎はお構いなしで稲の背中に体重をかけて、喜んで笑っている。
近くに控えていた侍女が手を差し出すが、稲はやんわりと制する。
邪魔だ、と言葉では言うが結局のところ稲も孫六郎に甘えられて嬉しいのだ。嬉しくて仕方がないのだ。
仙千代の襁褓も侍女に任せずに自分で替えた。
子供の世話を自分でするのがこんなにも嬉しいとは。
稲の頬は自然と緩む。
仙千代の世話を終え、侍女の預け、孫六郎に手を伸ばしてやると、飛びつくように抱きついてきた。抱きしめた孫六郎の髪から、子供特有のほんのりと甘い匂いがのぼる。それが稲を幸せにする。
「大殿が、まだかまだかとお待ちですよ」
頬にこらえきれない笑みを浮かべながら侍女が呼びにきたので、思わずその場にいた皆が声をあげて笑った。
「お祖父様が待ってますよ」
孫六郎を抱きながら稲も立ち上がる。
ぎゅっと抱きしめ直し、その幸せな重みにふと切なくなった。
孫六郎は稲が産んだ子ではない。あやめが産んだ子供なのだ。稲に育てて貰えるのなら安心です、そう言って預けてくれた子供。
稲にはなかなか子供が出来なかった。
夭逝したが信幸には娘がいたのだから、問題は自分だろう、と稲は悩んだ。
悩んで医師に相談したり、いろいろした。
女武将は、身体が自然と戦に備えようとしているのか生理不順になったりするので、そのせいではないだろうかと言われた。
悩んで悩んだ結果、あやめに言った。
「信幸さまのお子を産んでください」
あやめは、大きな瞳を一層大きく見開いて驚いていた。
驚きすぎてしばらく言葉を失った後、今更もう・・・と口先でごにょごにょと言ってから、
「まだお若いのですからね。深刻にならないで。気楽したら意外にね、ほらっ、出来ることもあるそうよ」
ね、と妹を励ますように、深い慈しみをこめた目を稲に向けた。
信幸があやめから遠ざかっていることは知っていた。
正室である自分を気遣ってのことだろうと分かっていた。
分かっているからこそ辛かった。
いくら信幸に言っても、いつもまだそこまで深刻に考えることはないとはぐらかされるだけ。それが悔しかった。自分がこんなに悩んでいるのに、と。
信幸には父、忠勝と義父である家康を通して話してもらった。
はぐらされるのが悔しくて卑怯だと分かっていて、徳川の「力」を使った。
家康と忠勝に呼ばれ、帰ってきた時、信幸は不機嫌だった。
初めて稲が目にした信幸の厳しい感情の色だった。
そもそも信幸は、他人に感情の色を読ませないところがある。
だから、初めて稲が見る信幸の「怒り」でもあった。
なぜそこまで怒るのか稲には分からなかった。
正室に子供が出来なければ、側室が子供を産むのは当然のこと。
なのに――。
いつも伏目がちの睫が真っ直ぐに稲を向けられ、睨まれたような気がしたが、それも一瞬。次の瞬間にはもう感情が鎮められ、瞼を伏せた無機質な目をしていた。
「稲が――」
真田家のことを思ってしてくれたことですから。
そう言うと、その足のままあやめの元へ向かい、しばらく通い続けた。
稲に向ける目はいつもの通り優しくて――けれど。
自分を見ているはずなのに、その瞳に自分は映っていない。
そう感じさせる初めて会った時と同じもの。
「本当は私が兄なのだそうです」
そう教えてくれたのは幸村。
沼田に信幸に会い来たが、信幸があやめのところに行っており不在だったので、稲が相手をしていた時のこと。
城内の誰かから話を聞いたのか突然そんなことを言い出した。
「私を産んだ女は、母の侍女だったそうですがすぐに死に、私は母に引き取られました。その後に、兄上が産まれ、年子だったので、父は正室の子供である兄上を長男とし、私を次男としたそうです」
言葉を失う稲に、ふと寂しげに視線を下げた後、
「暗黙の了解、とでもいうのでしょうか。誰もこのことには触れてきません。それでも、兄上も私も知ってしまいました」
「子供の頃の兄上は、本当に身体が弱くて――今でも決して丈夫ではありませんが、子供の頃は本当によく寝込んでまして、だからこそ――」
「いや――何でもありません。けれど、ずっと兄上は私に対して負い目を感じているようなのです。」
ふと幸村の目が遠い目をする。
遠いものの輪郭を捉えるような遠い目。
こんな目を知っていると稲は思った。そうだ、あやめだと気付いた時。
「私は兄上が正室の子供なのだから家督を継ぐのは当然のことと思ってますが、兄上はそうではなかった。兄上は――子供の頃は本当に不器用で、出来ないものが多かった」
「それを克服しようと頑張ろうと無理をして、体調を崩して寝込むという悪循環を繰り返してました」
「その悪循環が兄上を一層追い詰めていた」
「兄上が変わったのは――武田家が滅亡して甲府から戻ってきた時」
幸村は、長く話し疲れたのかそのまま、しばらく黙った。
黙ったまま、ちびりちびりと酒を飲み干していく。
稲も沈黙を合わせる――いや、稲に出る言葉がなかっただけのこと。
それでも、幸村の杯が空になったのに気付いて、注ごうとした時。
「これから――」
これから絶対に義姉上に子供が出来ないという確証があるのですか?
稲にそう問いかけてきた。
その問いかけに稲はふっと笑った。楽しくて笑ったわけではない。苦笑と胸の痛みを堪えるための笑みだ。笑いでもしなければ哀しくなってしまうから。
「分かりません。でも――」
「でも?」
「お約束します。仮に私に子供が出来ても、先に生まれた男子が真田家の嫡男です」
稲の言葉に幸村は何も言わない。
「信幸さまのお子なら、私には誰が産んでも可愛いと思いますが、それでも、あやめ様ならいいと思ったのです」
そっと両手で、子供を抱くようなカタチをつくり広げると、
「早く抱きたいわ。信幸様の子供を――」
うっとり夢見るようにそう言う。
ありがとう、と幸村が言った気がした。
幻聴かもしれないと思うほどの小さな小さな蜻蛉の羽のような儚いものだった。
それに稲は、そっと首を振る。
「話してくださって有難うございます」
まるで独り言のようにぽつり零す。
幸村は何も言わず、そっと空の杯を差し出してきたので、稲は酒を注ぐ。
注ぎながら、幸村は信幸がいないことを分かっていて、わざわざ話しに来てくれたのではないかと思った。
しばらくして昌幸、信幸、幸村は朝鮮出兵の為に肥後名護屋に向かい、布陣した。
一年半近く布陣してから京に向かい、京都伏見城の普請役を命じられた。
その間にあやめは男子―孫六郎を出産すると、稲に預けた。
預ける時、とっておきの秘密話を明かすように、
「――本当は私、好きな人が別にいるのですよ」
ふわり微笑みながらそんなことを言った。
「信幸さまもご存知のことです。」
えっ・・・、えぇっ、と動揺する稲を楽しげに、からかうように瞳を揺らした後は、何も言わない。稲もあやめがこれ以上何も言う気がないということが分かった。
ただ一度孫六郎を強く抱きしめた後、そっと稲に手渡してくる。
ずっしりとした赤子の重みを受け止めて、そっと抱きしめた。
温かくて愛らしい命の重み。
信幸が沼田に戻ってきたのは、孫六郎が歩き始めたばかりの頃。
まだおしゃべりも覚えていない赤児だったが、とにかく元気がいい子だった。
初めて会う父にも、とことこと転びそうな足取りで懸命に手を伸ばして近づいていき、信幸も自然な動作で孫六郎を抱き取っていた。
「この子が・・・私の子か」
呟きつつ、父に抱かれご満悦そうな息子をじっと見つめていた。
その後――。
真田家の跡取りを早く、という負担から解放されたのが良かったのか、稲は次男―仙千代を授かった。
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