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2024/11
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「私、船に弱いようで」

八千子が言う。
倒れた時、誾千代が部屋の前まで来てくれたと聞きましたのでお礼を、と訪れてきた八千子は、細川家が送ってくれたという絵巻物を一緒に見ましょうと持参してやって来た。

「京からこちらに来る時も船でしたでしょう?もう船酔いがひどくて、本当にひどくて、皆さんに沢山のご迷惑をおかけしてしまいまして、今回は船に乗っていないのに船酔いのようでした。誾千代さまは船酔い平気ですか?」

ええ、と誾千代は答える。
それから、一瞬躊躇したものの、それを見事に呑み込んで、

「船酔いは経験がありません。そのような体調の崩され方は、妊娠の初期にあるようですよ」

とさりげなく言葉に乗せてみる。

「えっ?」

虚をつかれたような空白に抜けた八千子の目に、誾千代は皮肉な思いを抱える。
何を驚くことがある。
やることをやっていれば出来る人には、出来るものではないか。
八千子は、しばらく何を言う言葉も、その唇にうかべられないようでいたが、そっと視線を傍に控えていた乳母へと流す。それに気付いた乳母が音もなく部屋を去った頃、

「子供ですか」

ぽつり言う。言ってから、小首を傾げて、目線を空に浮かべる。
何か思い出している様子だったが、焦れた誾千代はそれを押し隠して、

「この立花には後継がおりません。これで男子が生まれれば立花も――」
「それはないかと思います。さすがに新しい土地で緊張していた疲れが出ただけです」

誾千代の言葉を遮って、八千子が言う。それでも、構わず誾千代は続ける。

「これで男子が生まれれば立花も安泰です。八千子殿が宗茂の子供を産んで下されば私も安心して」
「なにが安心なのですか?」
「えっ?」

今度はその言葉に少なからず、誾千代が驚いた。

「仮に私に子供が出来ていたとします。それが安心なのですか?それが立花家の為ですか?宗茂さまの側室の身でありますし、心当たりがないとは言い切れませんけれど、それが誾千代さまの安心に繋がるとは思えません」
「八千子殿に、私の、立花の何が分かると」
「分かりません。まったく分かりません。誾千代さまも私の何がお分かりになりますか?」

八千子は、哀しく乾いた微笑をその頬に浮かばせ、

「あぁ、女とは本当に生きにくい。」

今まで聞いたことがないような冷たい声で言う。
素直で明るく、無垢な優しい女だと誾千代が思っていた八千子とは別人のようだった。

「この絵巻物は源氏物語のもので――」

八千子は傍らに置いていたそれを手に取ると、そっと開いて見せる。

「私は、この話が大っ嫌いなのです」
「えっ?」

誾千代も過去に和歌の勉強のひとつとして読まされたことがあり、女ったらしの男に、泣いてばかりの女たちが愛だと恋だと出家するだのしないだの云っている話としか思えなかったが、華やかに繰り広げられる恋模様に、切なさと憧れを、胸にときめかせる女たちも多いということは知っている。
八千子もそのような女たちのひとりだと思っていたが、目の前の彼女はそれを否定する。

「屋敷に閉じ込められている女たちを見て、この時代に生まれないて良かったと思いつつも、私のような女たちは大して当時と変わらない。結局男を頼らないと生きていけない。ですから、誾千代さまや細川の玉子さまのように、自らも戦場で男と対等に戦われる。その話を聞き、そこに理想を見た気がしていましたが」

いつの時代も女は生きにくいものなのですかね、と冷たい微笑を揺らした。
が、それも短い時間のこと。
すぐに頬に、にこっといつもの人懐っこいような笑みを浮かべて、

「宗茂さまが以前におっしゃってました。子供を望んでいないのは誾千代さまの方だと」
「それは・・・」
「後継が必要だと口にはするけれど、本心では望んでいない。子を孕むことを恐れているようだと」
「宗茂が・・・」
「それなのに、側室の私が仮に孕めば・・・、そうですね。先ほどのように表面上は冷静さを取り繕ってみせて、内心は嫉妬に胸が震えているというところでしょうか?」
「それは・・・」

誾千代の窮した様子に、八千子は溜息をひとつ。

「何を恐れているのですか?」
「別に恐れてなどいない!」
「そうですか」

言いながら、立ち上がると八千子は打掛にした小袖の裾をひらりと回す。
甘酸っぱい香りが、八千子の小袖の内側からふんわりと舞う。八千子が焚き染めた香りだろう。それが八千子自身の匂いと溶け合い、吸い込むこちらまで、甘酸っぱいような想いが、胸に溶けてきて、

「子供が出来たら、戦場に立つことが出来ない」

誾千代はぽつり呟く。
部屋を出て行きかけていた八千子の足が止まり、無言のまま振り返る。
八千子の視線を感じるが、誾千代は顔を上げない。

いつの間にか八千子が開いたらしい障子の外から、流れてくる風が八千子の香の香りを部屋に充満させる。
夕刻の冷たい風。
八千子を通り越し、外を見れば、いつか見たような夕日が目に映った。


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