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2024/11
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その人が現れた、その途端。
京都のまだ早く浅い春の風が、ふわりと舞い上がった気がした。
京都伏見の真田屋敷。
大助は、伯父に会うために、右近に連れられ初めてその屋敷に足を踏み入れた。
開かれた障子戸から入り込んできた風だけではない何かを大助は感じ取った。廊からキシキシと板の軋む音が耳に染み始めた頃から、感じ始めた緊張感と共に、そぉっと息を飲み込んだ大助に、

「堅苦しい挨拶はなしでいこう。面をあげよ」

そう言われ、大助は顔を上げて、まずは男に、それから脇に控えるように座った女に視線を流す。
その男――伯父の信之は、涼やかな落ち着きを宿した瞳で、大助を見る。
それから、唇に笑みを浮かべて、

「幸村によう似ている。確かに、信吉にも似ているな」

ふわりと瞳を細めて、微笑むと、脇の女―稲に同意を求める。
稲も、ええ本当に、とにこやかに微笑む。
父、幸村とは似ていない顔の、細い華奢な体躯の男だ。病だったと聞いてはいたが、その華奢な体と、紙のように白い顔色に、本当にこの男は戦場に立ったことがあるのだろうかという疑問が浮かんでくる。

「伯父上、伯母上には――」

堅苦しい挨拶はなし、と言われてもただ観察されるかのように見られるのが不愉快なだけだった大助が、唇を開くと、その途端信之がバッと大きな音を立てて、扇を開く。
思わずビクッと体を震わせ、大助は唇を閉ざす。
拒絶された――そう思ったが、信之の瞳はとても優し気で、親しみさえ感じられる面持ちで、

「上田に行ってみたくないか?」

そんなことを言う。

「もう城も残っていないと聞いてます」
「けれど、いつかは再建するつもりでいる」
「――・・・」
「それを手伝ってはくれないか?」

あまりにさりげなく言われたので、一瞬聞き逃しそうになって改めて伯父を見て思わず瞠目して息を呑む。
華奢で、穏やかそうな風貌だった伯父の目が、変わった。
漆黒の目に何も浮かんでいないのだ。先ほどまでの優しさも何もかも消えている。
己をただ真っ直ぐに見てくる光が、そこにふたつあるだけ。
怖い。怖いと大助は思った。
何を考えているのか分からないその目が怖いと思った。

――これが・・・真田信之なのか。

ただ徳川に尻尾を振って、家を存続させているだけの男かと思っていたのに。

「それは・・・」

ほんの少しだけ睫毛を震わして、大助は唇を動かす。

「それは?」

聞き返してくる声音は、穏やかで優しい。
なのに、答えさせようとする隙を与えようとしない。返答を求める問いかけをしてきたくせに、答えさせようとしない。

それはきっと――・・・。

ふいに信之から目を反らし、形勢を立て直そうとゆっくり瞬きをして、再度信之を見れば、その瞬間、大助の中で奇妙な具合に何かが胸の底から滲んできて、慌てた。
こんなの知らない、これは何だ――・・・。
伯父夫婦が自分を見るその目は、まるで父母と同じなのだ。



どう思う――信之が言えば、稲は少しだけ考え込んだ振りをしてから、

「信吉、信政とも毛並みの違った、また面白き少年かと」
「そうか」
「ああいう子供が傍にいると面白いでしょうね」

ふふふっ、と微笑む。
対面を終え、少しは京見学でもしてから帰れと信之は、大助に息子二人をつけて帰させた。

「信之さまは思いのほか意地悪ですね」

信之に茶を差し出しながら稲は、軽く睨んでみせる。
信之は茶を無言のまま受け取る。

「明確なことを言わせようとしない。あの子の性格からして、はっきりと言葉に出してしまえば、引き返せないからとはいえ、問いかけておきながら返事を許さない」

見てて可哀想になりました、と稲が言えば、信之は唇をにやりと歪める。

「てっきり帰さないつもりだと思ってました」

言ってから、あっと声を上げて、

「京見学は考える時間ですか?」
「いや――、うん、そうかもしれないな」
「どちらなんです」

くすくすと笑う稲に、信之もつられるように喉を揺らしてから、溜息をひとつ。

「疲れた」
「お休みになられますか?」

信之は立ち上がりかけた稲を止めて、その膝を求めれば、稲は座りなおして、嬉しそうに受け入れる。
自分の膝に頭を置く信之の髪を撫でながら、

「幸村さまには、お会いにならないのですか?」
「会えば、その場で私は幸村を斬ろうとするでしょう」

稲の手が止まる。

「私が幸村に勝てるとは思わない。思わないが、死に急ごうとしている幸村を止めようとするでしょう。けれど、考えてみれば、そんなことをしても意味がない」
「――意味?」
「幸村が死ぬ場所は戦場でなければ意味がない」

自分の頭の上で止まったままの妻の手を、信之が強く握ってから、稲に見えるように手を開く。

「この傷と首の傷のことは話していませんでしたね」

関ヶ原の頃の上田攻めの折に、幸村と槍を合わせて出来たものです。
幸村がいる戸石城に入り込んで、槍を合わせ、もちろん、負け、その時、そこで死ぬならいいと思ってました。
息子たちは大御所さまに預けてありましたから、私が死んだら大切に庇護を受け、真田の家を存続させてくれるでしょうし、息子たちがいれば稲は平気だろうと・・・。

「本当に勝手な人」

長すぎた言葉に疲れたように間を取った信之に稲は言う。
それに信之は、瞳を揺らす。

「弟に殺されるならいいと思っていた。私たちは互いに、互いを殺せないけれど、殺されるのは構わないと思っていた」
「今は――?」
「今は――」

信之が瞼を閉じて、独り言のように呟いた。
そんな時だった。廊から声がした。言い争っている。その声の持ち主が誰なのかふたりにはすぐに分かった。
言い争う声と重なって足音がふたりのいる部屋へと近づいてきた。
障子戸に影が映ったと思った途端、荒々しく開かれ、信之は上半身を起こす。

「一体どうしたんだ、お前たち」

息子ふたりに信之が言う。
このふたりが喧嘩すること自体は珍しいことではないが、いつもと様子が違う。

「父上、兄上が――!」

信政が告げた言葉に、信之も稲も言葉を失いかけた。



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