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「話し合うまでもなく、結論は出ているではありませんか」
と信幸が言った。
昌幸の陣所近くの御堂に入ってきた信幸は、昌幸と幸村を交互に見て、それから、昼頃からぐずぐずと曇っていた空が、
「雨になりましたよ」
まずはそう言った、そのさりげなさのままで、
「話し合うまでもなく、結論は出ているではありませんか」
そう言うと昌幸の前に腰を落としたのだった。
幸村は、またたきを忘れて、ただ信幸を見つめた。
昌幸は、にやりと笑い、だからといってなぁ、と含み笑いを洩らした。
「どこに誰の目があるとは限らないからな。じっくり話し合っている振りはしておいた方がいいだろう。すぐに別れては図っていたかのようだ」
「図っていたのではないのですか?」
交わされる会話の緊張感のなさに、幸村はひとりだけ焦燥感に襲われる。
領地である会津に戻っていた上杉景勝が、上洛命令に従わない為、謀反を企てているとして家康は、諸大名に征伐命を発した。
それを受けて、昌幸と幸村は上田城で、信幸は沼田城でそれぞれ従軍準備を整え、落ち合った頃。
昌幸に密書が届いた。
それに書かれていたのは、三成の挙兵を知らせるもの。
真田家は、徳川か三成か、決断を迫られている――はずなのだが。
その緊迫感を感じたのは幸村だけだったらしい。
父も兄も平素と変わらない。
結論は出ている。
信幸はそう言った。そして、昌幸もそれに対してただにやりと笑うだけ。
もしや――、いや、でも、しかし――。
幸村の頭には、そんな言葉ばかりがすり抜けていく。
そして、思い出す。
これだったのか――・・・。
ぽつり幸村が落とした呟きを信幸が拾う。
「これ?」
「兄上の結婚が決まった時、真田家が二分してしまうような。そんな気がしたことを思い出しました」
言ってからキッと顔を上げ、父と兄を見る。
ふたりとも真っ直ぐに幸村を見つめている。その視線をしっかりと受け止めて、
「このたびの戦は、三成殿に義があります!」
御堂に幸村の声が広がる。
「徳川殿こそ、豊臣の世を脅かす逆臣ではありませんか!兼続殿と三成殿が徳川勢を挟み撃ちにし、そして、地理的条件として上田と沼田は雌雄を決する絶好の地ではありませんか。そうなれば――」
「分かった」
幸村の上擦った声を、静かに制するは信幸。
あまりに静かな響きだったので幸村は逆に不安になる。その不安が体を支配する。全身をキリキリと締め付けるような不安は募るばかり。
「お前のいいたいことは分かる」
けれど、私は徳川につく――信幸ははっきりとした声で告げる。
「なぜ」
他の言葉は浮かばず、幸村はその一言だけを唇に載せる。
「義、とお前は言った。けれど、」
義などというものは己が決めることではない。時代を作りあげた勝者が決めることだ。
信幸が冷たく笑った。
その冷たさが一瞬、幸村の身の芯を震えさせる。
初めて見る信幸の冷たさに、幸村は募る不安が揺れ、それをどこかに振り払いたくて、
「兄上――!」
脇差に手をかけ、脅してでも信幸を引きとめようとしたが、信幸に動じた様子はない。
ふとその頬に冷笑を浮かべながら、
「徳川につく――。」
静かな声音。ほの暗い月夜を思わせる響きのような声音で告げる。
「そうすれば、どちらが勝者となっても真田の家は残る」
「義に反してまで残す――」
「幸村!」
幸村の声を、昌幸がピシリと叩いて消した。それでも、幸村は怯まない。
「この大局にあって、家が二分することの方が家名を残すより恥ではありませんか」
「幸村」
再び、昌幸が幸村の声を消す。
昌幸も信幸も、まるで動じてなどいない。その目の芯をちらりとも揺らさない。
ぐっ・・・と下唇を噛み、幸村は黙る。
御堂の暗がりに広がる沈黙は、まるで闇を抱いているようだ。
鼓膜を微かに震わすのは外の雨の音。
「お前を嫡男にしなくて正解だったな」
昌幸の言葉に、幸村は数瞬、心が空白になった。
その空白を濁したのも昌幸。
「信幸、お前はもう行け。真田の家は残さないといけない」
無言のまま、信幸は立ち上がる。
御堂の空気を揺らし去って行こうとする信幸に幸村は振り返ることが出来ない。
ぐっと拳を握った時、昌幸が立ち上がった。
幸村の脇を通り過ぎ、信幸と息子を呼ぶ。信幸の足が止まった気配がした。
そのまま、衣擦れのような音が聞こえた。
ふと振り返ると、昌幸が信幸を抱きしめていた。
それを困ったように信幸は受け止めて、その耳に何か言っている。
――あの時のようだ。
信幸が甲府から戻ってきた時のことのようだと思った。
武田家が滅亡し、おのおの人質とされていた者が逃げ延びてくる中、信幸はなかなか戻ってこなかった。戻れないのではなく戻らないのではないかと幸村は、怖くて仕方なかったあの時のことを思い出した。
あの時、昌幸は信幸のことなど気にも留めていないかのように見えた。
けれど――。
信幸が戻ったと家臣が伝えに来た時、心の底から安堵したのか。
しばらく、身動き出来ず、やがて家臣に導かれ、やってきた信幸の姿を見るや、岩のように固まっていたのが嘘のような俊敏な動きで駆け寄り、抱きしめていた。
あまりのことに驚いたらしい信幸だったが、
「信勝さまと約束しました。武田は滅びても、真田は名を残すと・・・」
だから、帰ってきました。
自分を抱きしめてくる父に告げていた。
思い出して、あぁと幸村は唸る。なぜ忘れていたのだろう。
真田の家のこととなると頑固になると信幸に言った時、約束をしたと言っていた。
誰と、と問いかけても笑うだけ。
あれは、武田信勝さまだったのか――。
人質時代、信幸は武田勝頼の嫡男、信勝の近習として仕えていたと聞いている。
信勝の元服と共に、信幸も一字貰い元服した。
甲府から戻ってきて、信幸が変わったのもその為――。
真田の名を残す為――・・・。
すべては真田家の為に――。
ぼんやりと父と兄を見ていた幸村に、信幸はふわりと微笑む。
先ほど見せた冷たい笑みは何だったのかと思うような優しい笑みだった。
「幸村――」
呼ばれて、じっと兄を見るが言葉はなかった。
そのまま、視線は反らされ、父に「ご武運を」と言い残して信幸は御堂を去っていく。
御堂は、雨音だけの静寂に戻る。
この雨で――。
この雨で、体の弱い兄上が風邪をひかなければいいが、と幸村は思った。
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と信幸が言った。
昌幸の陣所近くの御堂に入ってきた信幸は、昌幸と幸村を交互に見て、それから、昼頃からぐずぐずと曇っていた空が、
「雨になりましたよ」
まずはそう言った、そのさりげなさのままで、
「話し合うまでもなく、結論は出ているではありませんか」
そう言うと昌幸の前に腰を落としたのだった。
幸村は、またたきを忘れて、ただ信幸を見つめた。
昌幸は、にやりと笑い、だからといってなぁ、と含み笑いを洩らした。
「どこに誰の目があるとは限らないからな。じっくり話し合っている振りはしておいた方がいいだろう。すぐに別れては図っていたかのようだ」
「図っていたのではないのですか?」
交わされる会話の緊張感のなさに、幸村はひとりだけ焦燥感に襲われる。
領地である会津に戻っていた上杉景勝が、上洛命令に従わない為、謀反を企てているとして家康は、諸大名に征伐命を発した。
それを受けて、昌幸と幸村は上田城で、信幸は沼田城でそれぞれ従軍準備を整え、落ち合った頃。
昌幸に密書が届いた。
それに書かれていたのは、三成の挙兵を知らせるもの。
真田家は、徳川か三成か、決断を迫られている――はずなのだが。
その緊迫感を感じたのは幸村だけだったらしい。
父も兄も平素と変わらない。
結論は出ている。
信幸はそう言った。そして、昌幸もそれに対してただにやりと笑うだけ。
もしや――、いや、でも、しかし――。
幸村の頭には、そんな言葉ばかりがすり抜けていく。
そして、思い出す。
これだったのか――・・・。
ぽつり幸村が落とした呟きを信幸が拾う。
「これ?」
「兄上の結婚が決まった時、真田家が二分してしまうような。そんな気がしたことを思い出しました」
言ってからキッと顔を上げ、父と兄を見る。
ふたりとも真っ直ぐに幸村を見つめている。その視線をしっかりと受け止めて、
「このたびの戦は、三成殿に義があります!」
御堂に幸村の声が広がる。
「徳川殿こそ、豊臣の世を脅かす逆臣ではありませんか!兼続殿と三成殿が徳川勢を挟み撃ちにし、そして、地理的条件として上田と沼田は雌雄を決する絶好の地ではありませんか。そうなれば――」
「分かった」
幸村の上擦った声を、静かに制するは信幸。
あまりに静かな響きだったので幸村は逆に不安になる。その不安が体を支配する。全身をキリキリと締め付けるような不安は募るばかり。
「お前のいいたいことは分かる」
けれど、私は徳川につく――信幸ははっきりとした声で告げる。
「なぜ」
他の言葉は浮かばず、幸村はその一言だけを唇に載せる。
「義、とお前は言った。けれど、」
義などというものは己が決めることではない。時代を作りあげた勝者が決めることだ。
信幸が冷たく笑った。
その冷たさが一瞬、幸村の身の芯を震えさせる。
初めて見る信幸の冷たさに、幸村は募る不安が揺れ、それをどこかに振り払いたくて、
「兄上――!」
脇差に手をかけ、脅してでも信幸を引きとめようとしたが、信幸に動じた様子はない。
ふとその頬に冷笑を浮かべながら、
「徳川につく――。」
静かな声音。ほの暗い月夜を思わせる響きのような声音で告げる。
「そうすれば、どちらが勝者となっても真田の家は残る」
「義に反してまで残す――」
「幸村!」
幸村の声を、昌幸がピシリと叩いて消した。それでも、幸村は怯まない。
「この大局にあって、家が二分することの方が家名を残すより恥ではありませんか」
「幸村」
再び、昌幸が幸村の声を消す。
昌幸も信幸も、まるで動じてなどいない。その目の芯をちらりとも揺らさない。
ぐっ・・・と下唇を噛み、幸村は黙る。
御堂の暗がりに広がる沈黙は、まるで闇を抱いているようだ。
鼓膜を微かに震わすのは外の雨の音。
「お前を嫡男にしなくて正解だったな」
昌幸の言葉に、幸村は数瞬、心が空白になった。
その空白を濁したのも昌幸。
「信幸、お前はもう行け。真田の家は残さないといけない」
無言のまま、信幸は立ち上がる。
御堂の空気を揺らし去って行こうとする信幸に幸村は振り返ることが出来ない。
ぐっと拳を握った時、昌幸が立ち上がった。
幸村の脇を通り過ぎ、信幸と息子を呼ぶ。信幸の足が止まった気配がした。
そのまま、衣擦れのような音が聞こえた。
ふと振り返ると、昌幸が信幸を抱きしめていた。
それを困ったように信幸は受け止めて、その耳に何か言っている。
――あの時のようだ。
信幸が甲府から戻ってきた時のことのようだと思った。
武田家が滅亡し、おのおの人質とされていた者が逃げ延びてくる中、信幸はなかなか戻ってこなかった。戻れないのではなく戻らないのではないかと幸村は、怖くて仕方なかったあの時のことを思い出した。
あの時、昌幸は信幸のことなど気にも留めていないかのように見えた。
けれど――。
信幸が戻ったと家臣が伝えに来た時、心の底から安堵したのか。
しばらく、身動き出来ず、やがて家臣に導かれ、やってきた信幸の姿を見るや、岩のように固まっていたのが嘘のような俊敏な動きで駆け寄り、抱きしめていた。
あまりのことに驚いたらしい信幸だったが、
「信勝さまと約束しました。武田は滅びても、真田は名を残すと・・・」
だから、帰ってきました。
自分を抱きしめてくる父に告げていた。
思い出して、あぁと幸村は唸る。なぜ忘れていたのだろう。
真田の家のこととなると頑固になると信幸に言った時、約束をしたと言っていた。
誰と、と問いかけても笑うだけ。
あれは、武田信勝さまだったのか――。
人質時代、信幸は武田勝頼の嫡男、信勝の近習として仕えていたと聞いている。
信勝の元服と共に、信幸も一字貰い元服した。
甲府から戻ってきて、信幸が変わったのもその為――。
真田の名を残す為――・・・。
すべては真田家の為に――。
ぼんやりと父と兄を見ていた幸村に、信幸はふわりと微笑む。
先ほど見せた冷たい笑みは何だったのかと思うような優しい笑みだった。
「幸村――」
呼ばれて、じっと兄を見るが言葉はなかった。
そのまま、視線は反らされ、父に「ご武運を」と言い残して信幸は御堂を去っていく。
御堂は、雨音だけの静寂に戻る。
この雨で――。
この雨で、体の弱い兄上が風邪をひかなければいいが、と幸村は思った。
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