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果てて弛緩した身体を妻の上に圧し掛けたままの信之の頭を、稲がそっと撫でる。
信之は大人しくされるがままでいる。
子供にしてやるように稲は、そっと信之の髪を撫で続ける。
関ヶ原の後。
想いが通じ合って、信之の冬の水面を思わせるような静かな瞳に甘さが灯って。
それは稲がずっと求めていたものだけれど。
それとは別にまた違うものも浮かぶようになった。
――執着。
信之が、自分にとても執着心を抱くようになったと稲は感じている。
足りない何かを補うように、いや、違う。
失ったものを何かで必死に補おうとしているのか。
それはきっと――幸村。
仲の良い兄弟だった。
稲が嫉妬するぐらいに仲が良かった。
幸村が九度山に去ってすぐは、そんなことはなかったが・・・。
離れている時間が長くなるにつれて――。
稲も徳川への臣従の証の質として江戸にいることが多いが、他の人質に比べたら待遇はいい。稲自身が戦場に出て徳川の天下に貢献した、ということになっている為、沼田と江戸をかなり自由に行き来している。
けれど、離れている時間は多い。
だから、会えば時間を惜しむように稲を求める。
きっと幸村も同じように妻を求めているのではないだろうか。
自分までも失ったら――信之がそう思っていると稲は感じている。
私が信之さまのお傍から消えるなんてことないのに、と夫の髪を梳くように撫でていたが、やがて、ふふっと笑う。
「何が可笑しいのです?」
顔を上げて信之が、稲を見つめる。
「信吉は、幸村さまに似ていると人はいいますけど、髪質は信之さまそっくり」
「幸村の髪に触れたことがあるのですか?」
「ありませんよ」
信之が嫉妬しているのを感じ取って稲は嬉しくなる。
「でも、見れば分かります。信之さまよりは固い髪をしてます」
「そう・・・だったかな?」
稲の頭の脇に左手を置き、身体を支えながら、信之は右手で自分の髪に触れる。
「しかし、変なところに気付きますね」
「そうかしら?」
「私は、幸村の髪質なんて覚えてません」
また、稲はふふっと頬を揺らす。
「もう信吉も信政も素直に髪なんて触らせてくれませんから。義母上の気持ちが今になってよく分かります」
手元を離れていく兄弟を前にすると、寂しいと零したくなる気持ちが稲には分かる。
「私にこうして髪を触らせてくれるのは信之さまだけ」
「私は息子たちの代理ですか?」
「あら、ふたり以上に手がかかっている気がしますが」
くすくすと笑う稲の唇を塞ぐように信之は、自分のそれを落としてくる。
ついばむような軽い口付けだったが、じょじょに濃くなっていく。
その唇が下がっていき、柔らかく温かいものが稲の首筋を這った。あっ、と稲の唇から声が洩れた。もう身体がもたないと思っていたのに、触れられれば応じてしまう。互いの胸の鼓動が近く重なり合う。吐息と汗が交じり合う。
信之の肌の温度がいっそう染みてくる。
そっと信之の髪に再び触れて、より強くその髪をかき乱す。
かき乱しながら、稲は信之によって与えられる甘美な甘さに心身ともに溺れていく。
※
透き通った空が、ゆらゆら揺れる。
夢のように儚く淡い青を滲む空。
青の中に、真っ白な雲。小さな雲。大きな雲。幾つもの形をした雲がふわりと浮かぶ。
そして、ふわりと流れていく。
それは雲の自由なのか、それとも風の命令なのか――?
雲は自由に動けるのか?
あの大空から見た人間などは、やはり儚きものなのだろうか?
どこまで広がる空から見れば、地上の命は小さきもの。
瞬きするうちに消えてしまうような、儚い存在なのではないだろうか?
幸村は、縁に寝転んで瞼を閉じる。
「生きていてくれるだけでいい。生きていれば、再起の時もあろう」
瞼の裏で兄―信之の声が思い返される。
信之が自分の再起を必死に働きかけていることは聞いている。
苦労ばかりかける。
本当は自分が信之を守りたかったのに、守られるばかり。
自分たちはもうどちらが兄で弟とか、そういう次元ではない気がしている。
しかし、自分は本当に再起を果たしたいのか幸村には分からない。
徳川に従いたいとは思えないのだ。
それはやはり三成のことが、あるからなのだろう。
「寝ていらっしゃるの?」
不意に声が聞こえ、つらつら答えのない考え事が途切れた。
寝転んだまま瞼を開けば、妻―里々の顔が見えた。
「あまりに陽気がいいので、転寝ですか?」
里々の声音は、差し込む陽光よりも穏やかで優しい。
おっとりと大人しい妻である。
結婚当初はそれが物足りなかったが、関ヶ原の後、信之が生活を面倒をみると言ったのを断って同行を訴えた時は驚いた。そして、止めても聞かない頑固さにまた驚かされた。
今の生活でも愚痴のひとつも零さない芯の強さがある。
いつしか里々を愛しく思い始めた幸村だったが、同時にくのいちのことも思い出す。
この愚かさにただ笑うしかできない。
育ての母の山手殿の侍女が生母だと幸村は聞いている。
子供の頃、なぜあのように優しく愛情深い母がいるのに、他の女に手を出したのかと父を非難する気持ちがあったが、今では父のことを、とやかく言えなくなってしまった。
くのいちに手こそ出していないが、時折こっそりと訪ねてくれるその姿を見れば、心が揺れる。
くのいちが帰った後に、里々を見ればまた心は揺れる。
ひねた性格をしていた父は、きっと真っ直ぐに愛したがりの母の愛情をどう受け止めればいいのか分からず、自分の生母につい逃げ、その後、いろいろあったが夫婦仲は良くなっていた。
その母の父の死後、1周忌を待ったかのように自害したと信之より文で教えられた。
もう一度会いたいと思っていたのが叶わず、だから、会いに行ったのだろう。
不思議と寂しさはなかった。
あぁ、その道を選んだかと思った。信之も同じ気持ちだろう。
夫婦とは、子供であっても人が入り込めない何かがある。
家と家との繋がりや利害で結ばれたとしても、それがきっと稲のいう、
「政略結婚も、ひとつの時を分けあうため、数え切きれない日を共にすることを運命に選ばれている」
というなのかもしれない。
しかし――と幸村は寝ころんだまま言う。
「私も衰えましたね」
里々が小首を傾げる。
「里々の気配にまったく気付かなかった」
「まぁ、それでは断りましょうね」
「断る?」
「大助が、槍の稽古をみて欲しいと言ってましたから。もう父上はお役に立てませんよ、とでも言っておきましょうか?」
幸村は上半身を起こして、苦笑を混ぜた溜息を落とす。
そんな夫に、里々もちょっと困ったように瞳を揺らす。
この九度山に来てから幸村は、里々との間に子供が恵まれており、大助はその長男である。その顔立ちは、昌幸が驚いたほどに孫六郎―今の信吉に似ている。血とは不思議なものだな、と幸村は思ったものだ。
けれど、時折やってくるくのいち曰く、性格が全然違うらしい。
あの小さかった甥たちも、今は立派になっていることだろう。
沼田城下の正覚寺で会ったのが最後。
またね、と手を振ってきた幼いふたりを思い出した時。
「父上!」
大助が、槍を片手に駆けてきた。それにまた幸村は溜息。
「稽古を見てください!」
「朝にもみてやっただろう?」
「足りません!」
大助は武勇に優れている、と親の贔屓目なしに思うが、その一方でそれがまた幸村の心配の種になっている。
自信があり過ぎるのだ。
罪人の子として生まれ育ち、その反動か、いつか世に出るという気持ちが強い。
煽ったのは昌幸だ。
大助に才があることに気付いてからは尚のこと。
真田家が天下をとった徳川に負けたことがない。徳川と豊臣に再度戦が起きるであろうこと。そうなったら、本家である信之たちは徳川につくが、我々はどうする――?
その時の為に鍛錬は怠ってはいけない、と大助に言い続けていたのだ。
幸村がとめても、昌幸はにやりと笑うばかり。
昌幸にとって子供の孫も、駒でしかなかったのかもしれないと幸村は思う。ある時、
「信之とお前の育て方を間違った」
と言い出したことがある。
幸村を山手に任せるのではなかった。他の家臣にでも預け、競わせ、憎ませ育てれば良かったなど幸村が、呆れることを言った。
それを孫たちに実践しようとしていたのだ。
幸村の子供たちが、信之たちの子供たちを恨み、そして――。
幸い、大助以下の子供たちは幼かったので事情が分かっていない。
昌幸は、子供や孫に愛情は十分に持っている。
けれど、策士としての自我が強い人間だった。年をとってからそれが濃くなった。
あの北条氏直でさえ、1年あまりで許され、関ヶ原で総大将だった毛利輝元も赦免されているのだから、自分もほどなく、と思っていたが徳川は許さなかった。
死んだとき、正直幸村は安堵した。
「武芸も大切だが、お前は字が汚い。そちらも鍛えろ」
「しかし」
「連署などする時に、字が汚いと恥をかくのはお前だ」
幸村の言葉の言葉尻が突き離す様子だったので大助は、ぷいっと拗ねて行ってしまう。反抗期も重なっているらしい大助は近頃扱いずらいが、妙なところで素直なので、手習いの練習をするだろう。
大助の手習いには、信之からの文を手本として使わせている。
信之は達筆だ。
筆不精は相変わらずで、幸村も信之から届く文より稲からの方が多い。
信之の近況を知るのは大抵稲からの文。
信之は自分のことをあまり書いてこない。
それでも、信之から届く文は、こちらの心配をしながら、会ったことのない甥や姪の成長を喜ぶ内容ばかり。
大助の手本にしているものは、その誕生を喜ぶもの。
少しでも会ったことのない伯父の愛情を感じてもらうためにも。
それが大助に通じているかどうかは分からない。
『――里々殿、無事出産のことと知り、安堵いたしております。まだ見ぬ甥の姿を心に思い描くにつけ、早くその顔を見れる日がくることを願うばかりです。まだ私の力が足りぬ為、不自由をかけていることを申し訳なく思っております。』
「こちらは稲、孫六郎、仙千代に、昨年生まれましたまんも元気にしておりますのでご安心ください」
すっかりと覚えてしまった手本を大助は口に出して書き写すと、書いたそれをぐしゃと握り潰して投げ捨てる。
手に乾いていなかった墨がついて、それがまた大助を不快にする。
「何がご安心くださいだよ」
お前は何も不自由なく、暮らしているのだから当然だろう。
大助の中に苛立ちだけがつのる。
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信之は大人しくされるがままでいる。
子供にしてやるように稲は、そっと信之の髪を撫で続ける。
関ヶ原の後。
想いが通じ合って、信之の冬の水面を思わせるような静かな瞳に甘さが灯って。
それは稲がずっと求めていたものだけれど。
それとは別にまた違うものも浮かぶようになった。
――執着。
信之が、自分にとても執着心を抱くようになったと稲は感じている。
足りない何かを補うように、いや、違う。
失ったものを何かで必死に補おうとしているのか。
それはきっと――幸村。
仲の良い兄弟だった。
稲が嫉妬するぐらいに仲が良かった。
幸村が九度山に去ってすぐは、そんなことはなかったが・・・。
離れている時間が長くなるにつれて――。
稲も徳川への臣従の証の質として江戸にいることが多いが、他の人質に比べたら待遇はいい。稲自身が戦場に出て徳川の天下に貢献した、ということになっている為、沼田と江戸をかなり自由に行き来している。
けれど、離れている時間は多い。
だから、会えば時間を惜しむように稲を求める。
きっと幸村も同じように妻を求めているのではないだろうか。
自分までも失ったら――信之がそう思っていると稲は感じている。
私が信之さまのお傍から消えるなんてことないのに、と夫の髪を梳くように撫でていたが、やがて、ふふっと笑う。
「何が可笑しいのです?」
顔を上げて信之が、稲を見つめる。
「信吉は、幸村さまに似ていると人はいいますけど、髪質は信之さまそっくり」
「幸村の髪に触れたことがあるのですか?」
「ありませんよ」
信之が嫉妬しているのを感じ取って稲は嬉しくなる。
「でも、見れば分かります。信之さまよりは固い髪をしてます」
「そう・・・だったかな?」
稲の頭の脇に左手を置き、身体を支えながら、信之は右手で自分の髪に触れる。
「しかし、変なところに気付きますね」
「そうかしら?」
「私は、幸村の髪質なんて覚えてません」
また、稲はふふっと頬を揺らす。
「もう信吉も信政も素直に髪なんて触らせてくれませんから。義母上の気持ちが今になってよく分かります」
手元を離れていく兄弟を前にすると、寂しいと零したくなる気持ちが稲には分かる。
「私にこうして髪を触らせてくれるのは信之さまだけ」
「私は息子たちの代理ですか?」
「あら、ふたり以上に手がかかっている気がしますが」
くすくすと笑う稲の唇を塞ぐように信之は、自分のそれを落としてくる。
ついばむような軽い口付けだったが、じょじょに濃くなっていく。
その唇が下がっていき、柔らかく温かいものが稲の首筋を這った。あっ、と稲の唇から声が洩れた。もう身体がもたないと思っていたのに、触れられれば応じてしまう。互いの胸の鼓動が近く重なり合う。吐息と汗が交じり合う。
信之の肌の温度がいっそう染みてくる。
そっと信之の髪に再び触れて、より強くその髪をかき乱す。
かき乱しながら、稲は信之によって与えられる甘美な甘さに心身ともに溺れていく。
※
透き通った空が、ゆらゆら揺れる。
夢のように儚く淡い青を滲む空。
青の中に、真っ白な雲。小さな雲。大きな雲。幾つもの形をした雲がふわりと浮かぶ。
そして、ふわりと流れていく。
それは雲の自由なのか、それとも風の命令なのか――?
雲は自由に動けるのか?
あの大空から見た人間などは、やはり儚きものなのだろうか?
どこまで広がる空から見れば、地上の命は小さきもの。
瞬きするうちに消えてしまうような、儚い存在なのではないだろうか?
幸村は、縁に寝転んで瞼を閉じる。
「生きていてくれるだけでいい。生きていれば、再起の時もあろう」
瞼の裏で兄―信之の声が思い返される。
信之が自分の再起を必死に働きかけていることは聞いている。
苦労ばかりかける。
本当は自分が信之を守りたかったのに、守られるばかり。
自分たちはもうどちらが兄で弟とか、そういう次元ではない気がしている。
しかし、自分は本当に再起を果たしたいのか幸村には分からない。
徳川に従いたいとは思えないのだ。
それはやはり三成のことが、あるからなのだろう。
「寝ていらっしゃるの?」
不意に声が聞こえ、つらつら答えのない考え事が途切れた。
寝転んだまま瞼を開けば、妻―里々の顔が見えた。
「あまりに陽気がいいので、転寝ですか?」
里々の声音は、差し込む陽光よりも穏やかで優しい。
おっとりと大人しい妻である。
結婚当初はそれが物足りなかったが、関ヶ原の後、信之が生活を面倒をみると言ったのを断って同行を訴えた時は驚いた。そして、止めても聞かない頑固さにまた驚かされた。
今の生活でも愚痴のひとつも零さない芯の強さがある。
いつしか里々を愛しく思い始めた幸村だったが、同時にくのいちのことも思い出す。
この愚かさにただ笑うしかできない。
育ての母の山手殿の侍女が生母だと幸村は聞いている。
子供の頃、なぜあのように優しく愛情深い母がいるのに、他の女に手を出したのかと父を非難する気持ちがあったが、今では父のことを、とやかく言えなくなってしまった。
くのいちに手こそ出していないが、時折こっそりと訪ねてくれるその姿を見れば、心が揺れる。
くのいちが帰った後に、里々を見ればまた心は揺れる。
ひねた性格をしていた父は、きっと真っ直ぐに愛したがりの母の愛情をどう受け止めればいいのか分からず、自分の生母につい逃げ、その後、いろいろあったが夫婦仲は良くなっていた。
その母の父の死後、1周忌を待ったかのように自害したと信之より文で教えられた。
もう一度会いたいと思っていたのが叶わず、だから、会いに行ったのだろう。
不思議と寂しさはなかった。
あぁ、その道を選んだかと思った。信之も同じ気持ちだろう。
夫婦とは、子供であっても人が入り込めない何かがある。
家と家との繋がりや利害で結ばれたとしても、それがきっと稲のいう、
「政略結婚も、ひとつの時を分けあうため、数え切きれない日を共にすることを運命に選ばれている」
というなのかもしれない。
しかし――と幸村は寝ころんだまま言う。
「私も衰えましたね」
里々が小首を傾げる。
「里々の気配にまったく気付かなかった」
「まぁ、それでは断りましょうね」
「断る?」
「大助が、槍の稽古をみて欲しいと言ってましたから。もう父上はお役に立てませんよ、とでも言っておきましょうか?」
幸村は上半身を起こして、苦笑を混ぜた溜息を落とす。
そんな夫に、里々もちょっと困ったように瞳を揺らす。
この九度山に来てから幸村は、里々との間に子供が恵まれており、大助はその長男である。その顔立ちは、昌幸が驚いたほどに孫六郎―今の信吉に似ている。血とは不思議なものだな、と幸村は思ったものだ。
けれど、時折やってくるくのいち曰く、性格が全然違うらしい。
あの小さかった甥たちも、今は立派になっていることだろう。
沼田城下の正覚寺で会ったのが最後。
またね、と手を振ってきた幼いふたりを思い出した時。
「父上!」
大助が、槍を片手に駆けてきた。それにまた幸村は溜息。
「稽古を見てください!」
「朝にもみてやっただろう?」
「足りません!」
大助は武勇に優れている、と親の贔屓目なしに思うが、その一方でそれがまた幸村の心配の種になっている。
自信があり過ぎるのだ。
罪人の子として生まれ育ち、その反動か、いつか世に出るという気持ちが強い。
煽ったのは昌幸だ。
大助に才があることに気付いてからは尚のこと。
真田家が天下をとった徳川に負けたことがない。徳川と豊臣に再度戦が起きるであろうこと。そうなったら、本家である信之たちは徳川につくが、我々はどうする――?
その時の為に鍛錬は怠ってはいけない、と大助に言い続けていたのだ。
幸村がとめても、昌幸はにやりと笑うばかり。
昌幸にとって子供の孫も、駒でしかなかったのかもしれないと幸村は思う。ある時、
「信之とお前の育て方を間違った」
と言い出したことがある。
幸村を山手に任せるのではなかった。他の家臣にでも預け、競わせ、憎ませ育てれば良かったなど幸村が、呆れることを言った。
それを孫たちに実践しようとしていたのだ。
幸村の子供たちが、信之たちの子供たちを恨み、そして――。
幸い、大助以下の子供たちは幼かったので事情が分かっていない。
昌幸は、子供や孫に愛情は十分に持っている。
けれど、策士としての自我が強い人間だった。年をとってからそれが濃くなった。
あの北条氏直でさえ、1年あまりで許され、関ヶ原で総大将だった毛利輝元も赦免されているのだから、自分もほどなく、と思っていたが徳川は許さなかった。
死んだとき、正直幸村は安堵した。
「武芸も大切だが、お前は字が汚い。そちらも鍛えろ」
「しかし」
「連署などする時に、字が汚いと恥をかくのはお前だ」
幸村の言葉の言葉尻が突き離す様子だったので大助は、ぷいっと拗ねて行ってしまう。反抗期も重なっているらしい大助は近頃扱いずらいが、妙なところで素直なので、手習いの練習をするだろう。
大助の手習いには、信之からの文を手本として使わせている。
信之は達筆だ。
筆不精は相変わらずで、幸村も信之から届く文より稲からの方が多い。
信之の近況を知るのは大抵稲からの文。
信之は自分のことをあまり書いてこない。
それでも、信之から届く文は、こちらの心配をしながら、会ったことのない甥や姪の成長を喜ぶ内容ばかり。
大助の手本にしているものは、その誕生を喜ぶもの。
少しでも会ったことのない伯父の愛情を感じてもらうためにも。
それが大助に通じているかどうかは分からない。
『――里々殿、無事出産のことと知り、安堵いたしております。まだ見ぬ甥の姿を心に思い描くにつけ、早くその顔を見れる日がくることを願うばかりです。まだ私の力が足りぬ為、不自由をかけていることを申し訳なく思っております。』
「こちらは稲、孫六郎、仙千代に、昨年生まれましたまんも元気にしておりますのでご安心ください」
すっかりと覚えてしまった手本を大助は口に出して書き写すと、書いたそれをぐしゃと握り潰して投げ捨てる。
手に乾いていなかった墨がついて、それがまた大助を不快にする。
「何がご安心くださいだよ」
お前は何も不自由なく、暮らしているのだから当然だろう。
大助の中に苛立ちだけがつのる。
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