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慶長3年、8月18日のことだったという。
秀吉の死を、宗茂は朝鮮で聞いた。
その年の5月頃から、みるみる痩せ衰えていったらしい。
秀吉の死によって、朝鮮に渡っていた諸将にも帰国命令が出た。
秀吉の死は伏せられていたが宗茂が、それを知ったのは加藤清正によってだった。
秀吉の子飼いのひとりであるから、公式とは違うツテでそれを知ったのだろう。
けれど、撤退がそう簡単にいくものではなかったが、どうにか博多に着いた。
出迎えのひとりに石田三成の姿があった。
そこで、秀吉の死が公式に発表され、宗茂は吐息を落とした。
正直、そんなことよりも早く柳川に帰りたかった。
秀吉の死は暗黙の了解で知っていたから何を今更とさえ思う。
今はそれ以上に気になって仕方ないことがあるのだ――。
誾千代から、
「ないしものやむ君をば打ち靡く風が霧り舞う朝風」
という和歌が送られてきた後、侍女の春と他の家臣からも文が届いた。
誾千代が名護屋まで秀吉に会いにいったと知らせる文だった。
誾千代を庇うように一度は断ったが、再三にわたる誘いを断りきれなくなったのだと書かれているが、秀吉と謁見を済ませた後の誾千代の様子が可笑しいものだった、というのだ。
顔面蒼白で、全身を震わせ、逃げるように部屋から出てきたという。
何があったのかと問えば、何もないとしか答えない、と。
誾千代が秀吉とふたりきりになった時間は短かかったらしい。
春は、同じ女として見て、誾千代の操が奪われてはいないと強調していた。
けれど、それが逆に宗茂の中に黒い染みを作る。
早く柳川に、と気を急かせる宗茂の耳に、怒鳴り声が届いた。
見れば加藤清正と石田三成が言い争っている。
いや、一方的に清正が怒鳴り、それを三成が涼しい顔で受け流している。
ふたりとも秀吉の子飼いとして長いつきあいだろうが、ひどく不仲だ。
昔なじみなのに、と思う気持ちと、昔なじみだからこそ確執も深くなる―そう思う気持ちがある。
いや、三成は清正とだけではなく他の武将たちとの間にも溝を作っている。
仮に――。
誾千代が男だったら、ああいう男ではないだろうかと思わせる。
だから、宗茂は嫌いではなかった。
だが――。
秀吉という重鎮を失った豊臣政権。
「世が動くな・・・・」
口には出さない。口腔で呟く。
もう既に関東の徳川家康が不振が動きを見せているという噂も耳にしている。
※
柳川城に帰城した宗茂たちの出迎えの中に誾千代の姿を見つけた時、宗茂は心底日本に帰ってきたのだと実感した。彼女のことだから、宮永村の館に戻ってしまっているかもしれないと心配もしていたが、宗茂は、胸を撫で下ろした。
淡い灯りが、誾千代の横顔を照らす。
帰国の祝宴が終わり、寝室に誾千代とふたりきり。
長いこと会っていなかった誾千代を、ついまじまじと見ていると、迷惑そうに顔を反らされる。
「変わらないな、お前は」
宗茂が、そう言えば、
「お前もな」
誾千代がつれなく答える。
相変わらずの誾千代に思わず宗茂の口の端に笑みが浮かぶ。
笑われ誾千代の眉根が歪む。
「疲れているだろう」
だから、もう寝ろ、と誾千代が言う。
ならば、と宗茂が誾千代の腕を掴むと、咄嗟に身体を引かれた。
「今日は、ひとりでゆっくり休め」
「嫌だ」
宗茂は、身を乗り出して誾千代の右腕を掴み取った。やめろ、という抵抗は、目の前に広がる広い胸と、掴まれた腕に気圧され、大きな声にはならなかった。それでも、抵抗を試みる誾千代の肩を宗茂が押えつける。
すると、びくっと誾千代が大きく震えた。
いや、怯えた。
その様子に宗茂は、誾千代の身体をわずかに離すと、彼女の顔を覗き込む。
青い、怯えたような顔をしていた。
初めての時だって、こんな怯えた様子は見せなかった。
その様子にみるみると宗茂の胸のうちにどす黒いものが広がる。
「――太閤に・・・」
何かされたのか?
宗茂がそう言うと、誾千代が大きく首を振ったかと思うと、みるみる顔を赤くして怒りを示した。それに宗茂はほっとするが誾千代は、
「お前、何を疑っているのだ?!」
と食ってかかってくる。そんな誾千代に、
「疑ってなどいない。ただ、様子がおかしいと思ったから――でも、もう安心した。その様子なら俺のただの勘違いだ」
「――・・・」
「けれど、何を怯えているのだ?今、お前の目の前にいるのは俺だ」
「太閤には――」
何もされていない。ただ、脅されただけだ。
誾千代がそう言う。それを受けて宗茂が、顔を歪める。
「脅される・・・?」
「豊臣を絶対に裏切るな――とそう言って肩を掴まれた」
誾千代はそう言うと、今度は先ほどとは打って変わってその身を宗茂に預けてきた。宗茂はもたれかかってきた誾千代の上半身を受け止め、彼女の髪に指を絡める。
「太閤がそんなことを――」
自分の死後、どう天下が動くか考えていたのか。
戦場を駆け、殺戮の残骸を前にしても気丈に振舞う誾千代をここまで怯えさせるとは。
宗茂は、きつく彼女を抱きしめる。
今、誾千代の中に渦巻く不安を取り除くものを何を持っていないから。
自分の腕しかないから、宗茂はただきつく彼女を抱きしめる。
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秀吉の死を、宗茂は朝鮮で聞いた。
その年の5月頃から、みるみる痩せ衰えていったらしい。
秀吉の死によって、朝鮮に渡っていた諸将にも帰国命令が出た。
秀吉の死は伏せられていたが宗茂が、それを知ったのは加藤清正によってだった。
秀吉の子飼いのひとりであるから、公式とは違うツテでそれを知ったのだろう。
けれど、撤退がそう簡単にいくものではなかったが、どうにか博多に着いた。
出迎えのひとりに石田三成の姿があった。
そこで、秀吉の死が公式に発表され、宗茂は吐息を落とした。
正直、そんなことよりも早く柳川に帰りたかった。
秀吉の死は暗黙の了解で知っていたから何を今更とさえ思う。
今はそれ以上に気になって仕方ないことがあるのだ――。
誾千代から、
「ないしものやむ君をば打ち靡く風が霧り舞う朝風」
という和歌が送られてきた後、侍女の春と他の家臣からも文が届いた。
誾千代が名護屋まで秀吉に会いにいったと知らせる文だった。
誾千代を庇うように一度は断ったが、再三にわたる誘いを断りきれなくなったのだと書かれているが、秀吉と謁見を済ませた後の誾千代の様子が可笑しいものだった、というのだ。
顔面蒼白で、全身を震わせ、逃げるように部屋から出てきたという。
何があったのかと問えば、何もないとしか答えない、と。
誾千代が秀吉とふたりきりになった時間は短かかったらしい。
春は、同じ女として見て、誾千代の操が奪われてはいないと強調していた。
けれど、それが逆に宗茂の中に黒い染みを作る。
早く柳川に、と気を急かせる宗茂の耳に、怒鳴り声が届いた。
見れば加藤清正と石田三成が言い争っている。
いや、一方的に清正が怒鳴り、それを三成が涼しい顔で受け流している。
ふたりとも秀吉の子飼いとして長いつきあいだろうが、ひどく不仲だ。
昔なじみなのに、と思う気持ちと、昔なじみだからこそ確執も深くなる―そう思う気持ちがある。
いや、三成は清正とだけではなく他の武将たちとの間にも溝を作っている。
仮に――。
誾千代が男だったら、ああいう男ではないだろうかと思わせる。
だから、宗茂は嫌いではなかった。
だが――。
秀吉という重鎮を失った豊臣政権。
「世が動くな・・・・」
口には出さない。口腔で呟く。
もう既に関東の徳川家康が不振が動きを見せているという噂も耳にしている。
※
柳川城に帰城した宗茂たちの出迎えの中に誾千代の姿を見つけた時、宗茂は心底日本に帰ってきたのだと実感した。彼女のことだから、宮永村の館に戻ってしまっているかもしれないと心配もしていたが、宗茂は、胸を撫で下ろした。
淡い灯りが、誾千代の横顔を照らす。
帰国の祝宴が終わり、寝室に誾千代とふたりきり。
長いこと会っていなかった誾千代を、ついまじまじと見ていると、迷惑そうに顔を反らされる。
「変わらないな、お前は」
宗茂が、そう言えば、
「お前もな」
誾千代がつれなく答える。
相変わらずの誾千代に思わず宗茂の口の端に笑みが浮かぶ。
笑われ誾千代の眉根が歪む。
「疲れているだろう」
だから、もう寝ろ、と誾千代が言う。
ならば、と宗茂が誾千代の腕を掴むと、咄嗟に身体を引かれた。
「今日は、ひとりでゆっくり休め」
「嫌だ」
宗茂は、身を乗り出して誾千代の右腕を掴み取った。やめろ、という抵抗は、目の前に広がる広い胸と、掴まれた腕に気圧され、大きな声にはならなかった。それでも、抵抗を試みる誾千代の肩を宗茂が押えつける。
すると、びくっと誾千代が大きく震えた。
いや、怯えた。
その様子に宗茂は、誾千代の身体をわずかに離すと、彼女の顔を覗き込む。
青い、怯えたような顔をしていた。
初めての時だって、こんな怯えた様子は見せなかった。
その様子にみるみると宗茂の胸のうちにどす黒いものが広がる。
「――太閤に・・・」
何かされたのか?
宗茂がそう言うと、誾千代が大きく首を振ったかと思うと、みるみる顔を赤くして怒りを示した。それに宗茂はほっとするが誾千代は、
「お前、何を疑っているのだ?!」
と食ってかかってくる。そんな誾千代に、
「疑ってなどいない。ただ、様子がおかしいと思ったから――でも、もう安心した。その様子なら俺のただの勘違いだ」
「――・・・」
「けれど、何を怯えているのだ?今、お前の目の前にいるのは俺だ」
「太閤には――」
何もされていない。ただ、脅されただけだ。
誾千代がそう言う。それを受けて宗茂が、顔を歪める。
「脅される・・・?」
「豊臣を絶対に裏切るな――とそう言って肩を掴まれた」
誾千代はそう言うと、今度は先ほどとは打って変わってその身を宗茂に預けてきた。宗茂はもたれかかってきた誾千代の上半身を受け止め、彼女の髪に指を絡める。
「太閤がそんなことを――」
自分の死後、どう天下が動くか考えていたのか。
戦場を駆け、殺戮の残骸を前にしても気丈に振舞う誾千代をここまで怯えさせるとは。
宗茂は、きつく彼女を抱きしめる。
今、誾千代の中に渦巻く不安を取り除くものを何を持っていないから。
自分の腕しかないから、宗茂はただきつく彼女を抱きしめる。
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